関門プロデュース研究隊 隊長 富田です。

下関赤間神宮の「先帝祭」の有名行事と言えば、なんといっても『上臈(じょうろう)参拝』。

でも、機会あって拝殿近くでしっかり観て、それ以前とは印象が変わりました。

今回はその感想シェアを。

まずは、「先帝祭」「上臈参拝」とは何かを簡単に

「先帝祭」も「上臈(じょうろう)参拝」も知らない人もいることでしょうから、まず軽くそこからご紹介します。

安徳天皇を祀る赤間神宮の水天門

「先帝祭」とは、下関の神社「赤間神宮」の最も大切なお祭りで、源平合戦の最終戦「壇ノ浦の戦い」で政権争いの犠牲となって波の下に沈んだ幼帝 安徳天皇 の御命日に祈りを捧げ、ご菩提を弔い、帝を偲ぶ行事です。
「先帝」は一般的にはその字の通り「今の前の天皇」のことなのですが、安徳天皇を大切に思う下関の人にとって800年経っても先帝といえば安徳天皇なのです。

そして、「上臈参拝」とは、現在では先帝祭のメイン行事ともいえる行事で、「太夫」つまり上級芸妓のきらびやかな装束での参拝なんです。東京でいうと奥浅草・吉原の「花魁(おいらん)道中」を皆が楽しむような感じです。

下関の花柳界は大元をたどれば、源平合戦で都からやってきた平家の女官などが、壇ノ浦の戦いの後この地で生きていくために始めた営みに端を発するということで江戸時代に始まった行事なのだとか。なので、花魁道中の江戸時代っぽさと、平安絵巻の雅な雰囲気とが入り混じった不思議なイメージなんですね〜。
いにしえの下関市民は、華やかな太夫がしゃなりしゃなりと歩く「道行き」を毎年ワクワク楽しみにするようになり「お祭り」になっていきました。

ですので、下関の街なかを花魁道中のように巨大な高下駄を履いて「外八文字(そとはちもんじ)」と言われる独特な歩き方で徐々に赤間神宮に近づいていく道中の「道行き」が見どころ。
最終的には赤間神宮に到着し、竜宮城を模した独特の「水天門」から拝殿までこの日のために特別に設けられた赤いスロープの花道を、太夫たちが花魁下駄を脱いでも外八文字の足運びで優雅に上がっていくのが最大の見せ場になっていて、観光ポスターやニュース映像でもおなじみのシーンはこの瞬間です。当然、カメラマンたちの巨大望遠レンズもこの一瞬に向けられていますし、「先帝祭」をご存知の方はこのイメージを持っている人がほとんどでしょう。僕もその印象をもっていました。

上臈参拝は、当然ながら安徳帝への祈りの儀… 見せ場は「道行き」よりも「参拝」だった

我々関門時間旅行プロジェクトは、平家物語をベースに創作した琵琶朗読劇「波の下の都」を繰り返し上演しています。

平家文化を現代に伝える…ということで、赤間神宮や全国平家会にもご後援をいただいていますが、そのご縁で令和元年の先帝祭の本殿ご招待券である「赤券」を全国平家会の野崎会長から頂きました。

これがあると、すごい混雑の赤間神宮正面をスルッと抜けて、脇の階段をトトトンと登って拝殿横の有料エリアにあっさり入れ、オリジナルうちわと徽章ももらえてVIP気分が味わえるありがたい御札なのです。

これまで、人混みを避けたい故に3日の赤間神宮内に入るのは避けてきましたが、ついに上臈参拝を境内から拝観させて頂くことになりました。そして、改めて、上臈参拝とは安徳帝の御命日の参拝で、安徳天皇へ祈りを捧げる行事だったんだ…という当たり前のことを強く感じたのです。

外八文字で優雅に歩く太夫の道行き姿ももちろん素敵ですが、拝殿での振る舞いはまさに「神事」そのものでした。これを観てこそ「上臈参拝」の拝観で、いやぁとても感動しました。

▼こちら、女官や禿(かむろ)や稚児たちと参拝を待つ太夫。先帝を偲ぶ姿です。

▼続いて、参拝中の太夫。優雅に手を広げ柏手をうちます。まさにこれが「上臈参拝」ですね〜。

▼そして、参拝を終えて優美に帰っていきます

太夫だけでなく、警固(けご)も女官も稚児(ちご)も神官も・・・その所作の一つ一つがとても美しく、優美な中にも厳(おごそ)かで、これは相当に練習を積んで臨んでいるのだろうなと感じました。単に参拝するのではなくまさに一連の「儀式」「神事」なんですね。

もちろん、誰かに観せるためではありません。神様となった安徳天皇に捧げるためであり、一心にその所作に集中することで「祈り」「払い」「清め」「祀る」という想いが形になっていくのです。それが美しいんですね〜。

「赤券」に記載された先帝祭の由来をご紹介

最後に、赤間神宮発行の先帝祭拝殿への招待券である「赤券」に記載されていた『先帝祭の由来』をご紹介します。いろんなパンフレットやWEBサイトに由来はありますが、何しろこちらが本家本元だと思いますので、備忘の意味も含めて。

そのまま引用するのも何ですので、少し富田流にかみくだいてご紹介します。

【先帝祭の由来】(赤券に記載の文をやや意訳)

壇ノ浦に平家滅亡の際に中島四郎太夫正則という武士が安徳天皇のご遺骸を奉葬して、家来と共に籠もりながら再興を狙っていましたが結局チャンスは訪れませんでした。中島たちは漁業を営みながら毎年先帝の御命日に威儀を正して・・・つまり身なりや形式を整えて作法にかなった形で参拝を続け、それが今日に至ったのが先帝祭の由来です。
また、たくさんの女官も地元の人に助けられ、山野の花を手折っては港に泊まる船人に売り生計を立てながら、毎年先帝の御命日に閼伽(仏に備える水)を汲み、お香とお花を手向け、威儀を正して礼拝を続けたものが上臈参拝の源です。
それ以降、連綿と続いてきたこの礼拝はさらに発展し、官女に警固(けご)と稚児(ちご)が従い、上臈(太夫)に禿(かむろ)が随行する美しい行列となります。平安時代に宮中で舞われた五節舞(ごせちまい)姫の形に倣ったものです。太夫の絢爛豪華な外八文字道中は実に天下の壮観として観る者に固唾(かたず)を飲ませ、まさに西日本唯一の行事と称えられています。

およそこんなことが書いてありました。

つまり、いやまさに伝統神事なのだと再認識した先帝祭でありました。

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