宮本武蔵ゆかりの地というと、最晩年に五輪書を書いた熊本市が有名ですが、北九州市・小倉も武蔵とは切っても切れない深い縁のある地なのです。
宮本武蔵と2つの時代の小倉城
武蔵の人生の二度のターニングポイント
宮本武蔵は、小倉城と生涯に二度、大きな関わりを持っています。
ひとつは巌流・佐々木小次郎との決闘時の1612年頃。これは細川藩の時代。
もう一つはその20年後。1632年頃、武蔵の養子・宮本伊織が家老となり明石から転藩してきた小笠原藩時代の小倉です。

小説や映画で有名な「巌流島の決闘」は、実際にはその内容も決闘の年も分かっていませんが、最近の研究で後のエピソードが明らかになってきました。武蔵は決闘後すぐに追われるようにして藩外に出されるのです。なぜ勝った武蔵が追い出されるのか? 詳しい話は別記事に書きました。
要するに小倉城は、武蔵には嫌な思い出が残る城だったと思われます。

ところがそれから20年経って、嫡子の宮本伊織が小笠原家の家老になり、その後すぐ幕命の転藩で小笠原家は明石から小倉へと国替えになります。そして、父の武蔵も再び小倉城に来るのです。まさに運命。この時武蔵は、50歳くらい。
熊本に移るのは8年後ですから、武蔵は小倉で生涯で最も長く暮らした可能性もあります。恐らく伊織の屋敷の一角に居たのではないでしょうか。今の思永中学の場所です。

小倉時代には「島原の乱」が起き、武蔵も参戦しています。若き宮本伊織は侍大将として活躍、戦後には大きく加増されて筆頭家老に出世します。戦経験のない伊織の活躍の裏にはきっと武蔵の助言や助力があったことでしょう。
武蔵にとっても、侍大将である伊織を通じて軍を指揮できた初めての戦であり、大いに奮い立ったと思います。だからこそ筆頭家老の父親という悠々自適な立場に甘んじず、伊織とは別の地で自分の生き方を貫きながら、弟子を育て五輪書を残す最後の大仕事へのモチベーションになったのではないでしょうか。
小倉は、武蔵の人生で2度のターニングポイントの土地なのです。
江戸時代までは「武蔵墓」といえば小倉・手向山が常識
武蔵墓は熊本と思われるようになった理由は明治期にあった
武蔵が亡くなったのは確かに熊本です。ですので、今では熊本市の武蔵塚が正式なお墓という人が多いのは理解できます。
しかし、江戸時代までは、「武蔵墓」といえば豊前・小倉の手向山 というのが常識でした。逆に、熊本の武蔵塚は一般に知られておらず、明治の終わりごろまでは荒れ果てた状態だったとか。
それを嘆いた熊本の地元有志が明治時代の後半に「宮本武蔵遺蹟顕彰会」を発足させて、忘れられかけていた熊本での宮本武蔵の足跡に注目が集まるようになったのです。
一方で、小倉の手向山の武蔵墓 ―― 今では「小倉碑文」と、まるで文章しか価値を認めぬように呼ぶ人が多いですが、当稿では敢えて「武蔵墓」と呼びます ―― は全国に知られる存在でした。
歌川広重(二代目)が幕末に書いた浮世絵の有名シリーズ「諸国名所百景」で豊前小倉の名所として描かれているのが「宮本墓」です。多くの観光客が訪れる有名な名所だったのです。少なくとも幕末までは。

それがなぜ、北九州の地元の人にも、ほとんどその認識が無くなったのでしょうか?
ここからは筆者、トミタの説ですが・・・
- 幕末の長州戦で負けた小倉の武士は小倉城に火をかけて敗走。小倉に残った町人には宮本武蔵への興味が薄かった。
- 明治に入り小倉・北九州は工業地帯として発展し、新住人の数が増え、武蔵墓よりも門司港や八幡製鐵所のイメージが強くなった。
- 関門海峡を行く船を狙うため明治時代に陸軍が宮本家からこの山を接収し砲台を築いた。武蔵墓は海沿いの延命寺へ降ろされ、第二次世界大戦後に戻されるまで武蔵墓は手向山に無かった。
これでは、地元の人が手向山の武蔵墓のことを忘れるのは無理ありませんよね~。
ちょうど時同じくして、熊本の「宮本武蔵遺蹟顕彰会」の皆さんが頑張って、明治から大正、昭和と時代が経つに連れて、武蔵墓=熊本 という認識が世間の常識になったというわけです。
宮本伊織が建てた父・武蔵の墓と、宮本家代々の墓所
しかし、どれだけ地元の認識が低くなろうとも、手向山の武蔵墓の価値が変わることはありません。なぜならそれは、武蔵の嫡男で小倉藩筆頭家老の宮本伊織が建てた宮本武蔵のお墓だからです。

武蔵が亡くなったのは熊本なのは間違いありません。武蔵塚付近に埋葬されたのも事実でしょう。とはいえ、いまの武蔵塚公園の碑は明治の終わりに有志の方が建てた記念碑ではないのでしょうか? それとも、盤面に正保…の文字が薄く見えるので、これは熊本藩が建てた当時の墓碑なのでしょうか?(ご存知の方いたら教えて下さい)

一方の小倉・手向山の武蔵墓碑は、間違いなく宮本伊織が武蔵の死後9年目の承応3年(1654)に建てたもので、400年近くそこにあるお墓です。
死後9年も経って建てたなら墓じゃなくて顕彰碑だろうとおっしゃる人もいるかもしれませんが、この9年は当時の宮本伊織の立場や小倉藩と熊本藩の関係などを考えると必要な年月と思われます。当時熊本藩と小倉藩は微妙な関係で、仲介に奔走したのが宮本伊織だったので(*詳しくはまた別の記事で)。
5メートル近い巨石の盤面には千余文字の漢文で宮本武蔵の人生が刻まれています。当時武蔵を直接知る人…特に武蔵を重用した藩主小笠原忠真が健在の時代に建てられた碑ですから、筆頭家老の伊織が責任を持って推敲した文面でしょう。一大プロジェクトだったに違いありません。すべての武蔵の物語はこの碑文が大元で、一見の価値があります。

「宮本家由緒書」によれば、手向山は小笠原忠真から武蔵の石塔山=墓所として拝領した山だということで、宮本伊織以下代々の宮本家のお墓も、江戸時代は武蔵墓と同じ場所に建てられていたそうです。
現在では宮本家代々のお墓は手向山の麓(ふもと)にあり関係者や許可ある人以外は入れませんが、囲い網ごしに見ることはできます。武蔵と同じコンセプトの自然石の墓石が会話をするように並んでいて、これらが武蔵墓と同じ場にあったところを想像すると、手向山はまさに武蔵を始祖とする宮本ファミリーの霊園であったと言えるでしょう。

宮本家の末裔は今も北九州市に在住し、代々のお墓を守っておられます。
アーティスト宮本武蔵の凄さ
武蔵は、芸術と哲学によって永遠の存在になった
話は変わりますが、武蔵は他の有名なサムライと違い、大名でも無ければ大きな武功もありません。そんな宮本武蔵が後の世の人を惹きつけ続けるのは、武蔵が残した「芸術作品」と「五輪書」をはじめとする考え方=哲学が、現代人の心も揺らす普遍性を持っているからに違いありません。
武蔵の作品は、書、絵画、工芸品などいろいろあります。まさにジャンル問わずの天才。中でも武蔵の「水墨画」は、4点が日本の重要文化財に指定されていて、高い評価を受けています。

その特徴は、まさに剣の動きを思わせる淀みない筆致。極めて短い時間で描かれたと思われ、ダイナミックな線と余白が迫力をもって迫ってきます。
武蔵の重要文化財を見る
(別サイトへ)
また、武蔵の代表作である「五輪書」は、勝利の哲学書として普遍的な内容が書かれています。
剣の達人向けの秘伝書かと思えば、はじめて剣を持つ初心者に向けて書いたのか?と思うほど、懇切丁寧に、剣の握り方や立ち方、目線、顔の表情などから書かれています。さらに大工の仕事になぞらえて説明するなど、読者の理解しやすさを常に想像する表現者のお手本のような作者なのです。

しかし、その内容は達人ならではの深さで「勝利の本質論」にどんどん迫ります。そして最終巻の「空の巻」では、一気に哲学的な表現で「武士道の本質」を伝え、読者に永遠の問いかけをして終わります。現代人が読んでも非常に面白い本です。
「五輪書」は世界中で今も読まれるベストセラー
「五輪書」は、日本では読む人はそう多くなく、逆に海外での方が読まれているかもしれません。Amazonの各国語版で調べてみれば分かりますが、「五輪書」が翻訳されてない国って無いのかも…と思うほど、多くの国で読まれています。
しかも、どの国のAmazonでもたくさんのレビューと★4つ以上の評価で、研究者向けの古書としてではなく今生きる普通の人が読んでいることが分かります。日本語版の古語とは違い、翻訳版はその国の人にとっては読みやすい言葉だからかもしれません。

それにしても、400年も前に書かれた「五輪書」が歴史資料としてではなく、世界で読み継がれているなんて本当に凄いことだと思いませんか? 実際には、上記の岩波文庫版、薄くてとても読みやすいので、日本人のあなたにお勧めします。コチラです。
宮本武蔵をめぐる北九州の旅
彼が人生二度の転機を迎えた、武蔵の小倉を感じに、めぐってみるのはいかがでしょうか?
◎小倉城

小笠原藩時代には、武蔵もきっと、息子で小笠原家筆頭家老の伊織とともに小倉城天守からの風景を眺めたでしょう。
ちなみに、小倉城に残る「時打ち太鼓」は、明石から持ってきた太鼓です。そして明石には、時打ち太鼓を打つ役人を小笠原家に推挙したのが宮本武蔵であるという記録も残っているそうです。小倉祇園太鼓に通じる太鼓の名人が、武蔵が推挙した人だったら…と想像すると楽しいですね。
◎小倉城庭園・小笠原会館

武家屋敷が復元されており、小倉城の細川家時代に家老を務めた長岡佐渡の屋敷を偲ぶことができます。吉川英治の小説では、武蔵を呼んだのは長岡佐渡ということになっていて、映画でおなじみのシーン:決闘前日に武蔵が居なくなって困り果てる長岡佐渡の屋敷はここです。
◎宮本伊織旧居跡
いま思永中学校になっている場所に、宮本伊織の屋敷があったそうです。母・理応院もそこに住んでいたことでしょう。宮本武蔵の住居跡というのは北九州では聴いたことがありませんので、おそらく武蔵も広い伊織の邸宅のどこかに部屋を持っていたのではないでしょうか。
◎手向山山頂・武蔵墓

なんといっても、ここが北九州・小倉の宮本武蔵関連の最大の聖地です。この巨石を用意し、盤面を整え、文字を刻み、この山の頂上に建てたというだけでも、めちゃくちゃ大変な作業だったことでしょう。この墓石が建った日、この場ではおそらく大法要が行われたのではないかと筆者は想像しています。碑に刻まれた建立日は、調べてみると仏滅であることが分かります。
◎手向山山麓・宮本家代々の墓所

一般非公開ながら、網越しに誰でも覗いてみることができます。武蔵と同じコンセプトでできた墓石が仲良く並んでいます。
◎広寿山福聚寺

手向山からもほど近いところにある小笠原家の菩提寺で、忠真が建立したお寺です。武蔵の死後なので宮本武蔵がこのお寺に来たことはありませんが、忠真に仕えた伊織は灯籠を寄進しています。中国の禅宗・黄檗宗のお寺で、質素さの中に独特の大陸風な趣がある本堂が、自然景観と見事にマッチしています。
◎生往寺・高田又兵衛の墓

宮本武蔵のライバルであり友人、明石時代から長い付き合いだった槍の名人・高田又兵衛のお墓があるのが生往寺。又兵衛と武蔵は、小倉城で小笠原忠真に所望されて御前試合をしたと伝わっています。
◎巌流島
正式には船島(ふなしま・かつては舟島)で、行政区的には下関市です。武蔵墓の碑文に伊織はこう書いています。実際は漢文ですが、読み下し文で。
長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A2%91%E6%96%87
わざわざ、舟嶋を岩流嶋と説明しているのは、この墓碑を建てた当時「舟嶋」では通りが悪かったからでしょう。武蔵にしてみれば、20年ぶりに帰ってきてみれば、勝利した自分の名前じゃなく、巌流の名で地元の民が島を呼んでいることを知ってショックだったのではないでしょうか。

いまは公園として整備されていて、武蔵と小次郎がこの場に居てこの風景を眺めたことが誰でも想像できる気持ちのいい場所です。関門時間旅行ガイド「宮本武蔵をめぐる旅~巌流島の決闘とは~」を持って、関門海峡を眺めながら半日くらいのんびり過ごして欲しい島です。
文責:富田剛史
関門時間旅行プロジェクトリーダー