約6000年前 – 本州と九州が分断され関門海峡が形成されたといわれる。日本海から瀬戸内海に抜ける極めて重要な交通の要衝であり、内海と外海を分けるまさに日本の「関門」というのにふさわしい海峡。その地勢的な宿命から、様々な戦いの舞台となっていく。

【古代の関門】
元祖ニッポンのワーキングシングルマザー!?神功皇后伝説

西暦192年(仲哀天皇元年) 仲哀(ちゅうあい)天皇が妻の神功(じんぐう)皇后と九州の豪族熊襲(くまそ)の平定のために関門海峡へ進軍。翌年、穴戸の国(長門国)に豊浦宮(御所)を置いた(今の忌宮神社の場所)。

199年(仲哀天皇8年)9月 仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため博多の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から新羅を攻めよと天照大神と住吉三神のお告げを受けたものの、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行う。しかしご信託の通り天皇軍は敗北し撤退。さらに翌、仲哀天皇9年2月、筑紫で熊襲の矢に打たれ崩じた。遺体は武内宿禰(たけうちのすくね)により海路穴門(※当時は関門海峡の一部は繋がっておりそこに巨大な穴が空いていて潮が行き来していたという説があります)を通って豊浦宮で殯された。

熊襲を征伐したあと、お腹にのちの応神天皇を妊娠したまま、朝鮮半島へ出征する神功皇后

200年(仲哀天皇9年)3月 神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり政治軍事を取り仕切り夫のカタキである熊襲を征伐した。ついで住吉三神より、再び新羅征伐の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。後の応神(おうじん)天皇を懐胎したまま海を渡って新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したといわれている。こうして生まれた応神天皇こそ八幡神。神社の中でも最も多い「八幡宮」は応神天皇を祀る神社で、神功皇后、仲哀天皇も主祭神となっている。

和布刈神社からの関門海峡

なお、この三韓出兵の際に豊浦宮で祈った神功皇后に住吉の神が与えた2つの不思議な珠(たま)・・・潮が満ちる珠「満珠(まんじゅ)」と干上がる珠「干珠(かんじゅ)」を、関門海峡の竜神に返したら2つの島になったというのが、その後の源平合戦で源頼朝軍のベースとなり今も見られる無人島、満珠と干珠であり、またそのときできた神社が関門大橋の門司側の真下にある和布刈神社である。

さらに三韓出兵帰りに、住吉三神の荒魂を穴戸山田ムラに祀れと神功皇后にご信託があり、建立したのが長門国一宮である下関の住吉神社(日本三大住吉のひとつ、社殿は国宝)。ちなみにその後に住吉三神の和魂を祀ったのが大阪の住吉大社である。

そして、それから650年ほど経って、神功皇后伝説は京都の平安京を鎮めるために重要な役割を果たすことになる。

【平安時代の関門】
行教の八幡宮遷座から、
平清盛と関門、そして壇ノ浦での源平合戦まで

859年(清和天皇貞観元年) 大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教宇佐神宮に参拝し「桓武天皇が京都に平安京を作って五十年以上も経過したのに未だに争いが絶えない。 守護神を教え賜え」と祈願したところ、「吾れ(宇佐神宮)を都近く移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けた。

落ちない野球ボールでおなじみ下関の氏神様亀山宮

翌860年(貞観二年) 清和天皇の勅命を受けた行教は、宇佐神宮のご分霊を山城国(京都府)に鎮座することになった。(行教さん、こんな人です)最終的には京都に石清水八幡宮(日本三大八幡宮のひとつ)を作るのだが、この旅の途中に行教はいくつかの八幡宮を創建している。中でも重要なのが関門海峡両岸の八幡宮。

黄昏時の門司の氏神様甲宗八幡神社

神功皇后伝説が残る関門海峡に立ち寄った行教は、両岸で宇佐神宮の神から神託を受ける。それでできたのが、門司港の甲宗(こうそう)八幡神社(御神体は神功皇后の甲冑)と下関の亀山八幡宮。門司、下関、それぞれの氏神様の誕生となる。
そしておよそ300年経つとまた大きく時代が動き、貴族から武士へと政治の主役が変わっていく。

イカリを背負った平家の総大将 平知盛

1158年(保元3年) 平清盛が大宰大弐となり九州へ赴任。当時みな左遷と嫌がった太宰府行きを清盛は喜んだという。なぜなら日宋貿易が牛耳れるから。そしてその貿易での要となるのが関門海峡の海の関所「門司が関」。海峡が最も狭くなるあたり。対岸は壇ノ浦。
平清盛は日宋貿易で富を蓄え、宮中に入り込み、ついには娘の徳子を天皇の中宮にして生まれた安徳帝の祖父となり我が世の春を謳歌するが、まさかその後すぐ門司が関の海に可愛い孫と一門が沈むことになるとは思っても見なかっただろう。

源氏総大将 源義経

1185年(元暦2年/寿永4年) 関門海峡 壇ノ浦で、貴族社会で栄華を誇った平家と東国鎌倉で新たな価値観を発展させた源氏とが最後の戦いを繰り広げる。当初優勢だった平家だが、途中で日に4度変わる関門海峡の潮の向きが逆転して形勢も逆転。源義経率いる源氏に平知盛が率いる平家が破れ、まだ6歳だった幼帝安徳天皇や女官たちと共に平家一門は海へと沈む。時代の潮目が完全に変わり本格的な「サムライの時代」に突入する。

【江戸時代の関門】
真剣勝負の時代の最後だった
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘。
そして、名家老 宮本伊織の時代へ

巌流島にある武蔵と小次郎の像

1612年(慶長17年) 戦国時代が終わり江戸時代初期、剣豪宮本武蔵と名門細川家の豊前小倉藩剣術指南役の佐々木小次郎が、小倉藩の正式に認める試合として関門海峡に浮かぶ巌流島(正式名:舟島)で決闘し、武蔵の勝利で終わる。
しかし、勝利した宮本武蔵は小倉藩に召し抱えられることもなく、さらにさすらいの浪人人生を続ける。武蔵と小次郎の戦いも、剣の強さが正義であったサムライの時代が終り太平の世に入ったことを示す潮目の変化だった。

1630年頃 赤間関(現下関)は北前船の寄港地として栄えていく。

小倉の手向山にある「小倉碑文」

1632年(嘉永9年) 細川家は肥後の加藤家の改易(お取り潰し)にともなって熊本へ移り、代わりに武蔵の養子である宮本伊織が仕えていた小笠原家が豊前小倉藩を収めることになる。その結果、小倉藩の重役として宮本伊織が養父宮本武蔵の因縁の地である関門へとやってくることになるのである。
そして、出世した伊織のもと宮本武蔵は7年ほどを巌流島を臨む小倉の地で暮らし、芸術・文化を中心に比較的平穏な時を送ったと思われる。

1638年(嘉永15年) 長崎のキリシタン一揆「島原の乱」に宮本武蔵、伊織親子も参戦し、大いに武功をあげて宮本伊織はごぼう抜きで出世、ついに豊前小倉藩の筆頭家老となって、宮本武蔵の果たせなかった大出世を果たす。

1640年(嘉永17年) 武蔵は熊本藩主 細川忠利に厚遇の客分として招かれ、最晩年を過ごして1645年(正保2年)に熊本で没。

1654年(承応3年) 武蔵没後9年を経て、小倉藩筆頭家老宮本伊織が小倉の手向山(たむけやま)に亡き父の業績を記した巨大な石碑を建立、現在も宮本武蔵を識る一級資料として建っている。宮本家は伊織の後も幕末まで代々小倉藩の家老を務める名門となっていく。

【幕末〜近代の関門】
高杉晋作、伊藤博文、アーネスト・サトウ、
アインシュタイン、出光佐三・・・
まるで日本近代史の青春ドラマの舞台

高杉晋作と伊藤博文

1863年(文久3年)高杉晋作率いる長州藩が関門海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を開始

1863年 長州藩が、英・仏・蘭・米に関門海峡で下関戦争(馬関戦争)を仕掛け惨敗。講和交渉には高杉晋作があたり長州ファイブとして留学経験がある伊藤俊輔(博文)井上馨が通訳にあたった。英国側の通訳であるアーネスト・サトウと懇意になった伊藤俊介の機転や高杉俊作のハッタリにより、巨額の賠償金を幕府に肩代わりさせるという奇策で長州藩は危機を脱する。この時、高杉や伊藤・井上は「武士の時代」の終わりを確信し、時代は近代へと大きく動いた→ 1868年に明治へ

アーネスト・サトウ

1875年(明治8年) 下関港が上海定期航路寄港地として開港指定を受ける

明治に入った当時、門司は塩田の寒村で、甲宗八幡神社や和布刈神社以外には目立ったものも無かった。そこで逆に、この何もない門司を大規模開発して国際港を作り、門司港まで鉄道を引いて陸上輸送を可能とし、当時軍の予備炭田とされていた筑豊の石炭開発を民間開放させることで、明治の始め出遅れた九州を大きく発展させられると考えたのが、その後政界の裏の策士として活躍する杉山茂丸と玄洋社の頭山満。当初暗殺者として出会った杉山茂丸と伊藤博文との不思議な縁も作用して、この計画は現実へと動き始める。

1889年(明治22年)門司港が国の特別輸出港(米・麦・麦粉・石炭・硫黄に限定した輸出港)に指定される

1891年(明治24年)九州鉄道門司駅(現門司港駅)を開業し、九州の鉄道の起点となる

1895年(明治28年)日清戦争講和条約(下関条約)が海峡に面した割烹旅館「春帆楼」で調印

1901年(明治34年)官営八幡製鉄所操業開始、山陽鉄道(京都~馬関=現下関駅)開通

1902年(明治35年)下関市へ改称(旧赤間関市)、関門~釜山間定期航路開始

貿易が盛んになった門司にできた旧門司税関(大正元年/1912)

九州にはたくさんの炭鉱王が生まれ、その中から安川敬一郎のような石炭以外の産業にまで発展させていく起業家も出てきた。
明治の前半は、官営の企業や財閥系が政府と一体になって殖産興業を進めるが、だんだんと独自事業を発展させる新しい事業家も育ち始め、門司港では出光佐三が1911年(明治4年)に出光興産を創業している。

1919年(大正8年)門司港に台湾・高雄航路開設

昭和はじめの門司港の絵はがき

1921年(大正10年)門司港に日本郵船の欧州航路「箱根丸」が初寄航し、以後欧州航路、上海航路が開設される

1922年(大正11年)門司にアインシュタイン博士が来訪

1942年(昭和17年)世界初の海底トンネルである関門鉄道トンネルが開通

そして、太平洋戦争の時代。門司港からはたくさんの兵士が戦場に向かった。

【ノスタルジックでレトロな関門へ】
昭和の高度成長期に時が急速フリーズし、
幸か不幸かそのまま残った近代建築群の街並みをいかして
いま「時間旅行の聖地」へ

門司港出征の碑

1945年(昭和20年) 第2次世界大戦終戦。門司港に引揚船多数。
1951年(昭和26年)門司港が特定重要港湾に指定される。

1958年(昭和33年)関門国道トンネル開通
1963年(昭和38年)旧5市(門司・小倉・戸畑・八幡・若松)合併で北九州市が誕生
1973年(昭和48年)当時は東洋最長の橋として関門橋が開通
1975年(昭和50年)新幹線の新関門トンネルが開通し、新幹線が博多まで伸びる

この、日本の高度経済成長期における、国道トンネル、高速道路、新幹線、の開通によって、5市合併で北九州市となり市庁舎が移った小倉まで一気に人は移動するようになり、近代化以降急速に発展した「関門」は完全に通過都市になり、今度は急速に冷え込んでいく。
そして、まるで急に氷河期が来てそのままの形で残ったいにしえの動物のように、下関と門司港・門司には日本の近代化の青春時代の街並みが、時がフリーズしたかのように残ることになった。

1995年(平成7年)門司港レトロオープン

1996年(平成8年)海峡メッセ下関オープン

2017年(平成29年)3月 文化庁の「日本遺産」に「関門ノスタルジック海峡」として認定される

夕暮れの門司港レトロ

2017年(平成29年)7月 「関門時間旅行 -海峡都市で、会いましょう。-」プロジェクトがスタート! まさに「時間旅行の聖地」たる関門の魅力を探り始めたところ・・・
さぁ、日本が世界に誇る海峡都市で、会いましょう!