関門プロデュース研究隊 隊長 富田です。
剣豪宮本武蔵は、重要文化財に指定された水墨画などを残した超一流の芸術家でもあります。
詳細に武蔵の筆致を研究し、筆で武蔵と会話しながら、技術的にも心理的にも、素晴らしい「新発見」をしていく砥上さん。その面白かったこと!
編集した映像ではすべてお見せできませんが、ぜひ記録に残したいと考え、寄稿して頂きました。
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宮本武蔵 筆
「枯木鳴鵙図」の魅力について
水墨画家 砥上裕將
圧倒的な強さ、そして、孤高の達人、というイメージで語られてきた宮本武蔵。その人間像は、これまであまりにも『強すぎ』ていて、理想の武士や強者としてのアイコンではあっても、円満な人格を有した幸福な人間として語られることはあまりなかったように感じる。
だが、今回、宮本武蔵の『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』を分析し、その筆致を追うことによって、絶対的強者としての宮本武蔵ではなく、一人の芸術家、一人の人間としての宮本武蔵像に、より深く迫ることが出来たのではないかと思う。
枯木鳴鵙図の素晴らしさは、『拙』と『工夫』と『気概』にある
まず、前提として、宮本武蔵は剣術において完ぺきで、圧倒的強者であったかも知れないが、絵師としては完ぺきとは言い難い存在だ。
技術的には未熟だと感じられるし、体系的な技法を持っているとも言い難いので必ずしも洗練されているとも言えない。
同時代の海北友松や、長谷川等伯などの絵師たちと比べると、どう好意的に見ても見劣りする素人画というような感じがするし、スタイルは当時からしても古典的で、革新的な画風を展開したわけでもない。
だが一方で、その一段劣った技法や画風の中にこそ、水墨画の本質を突き、人間としての在り方を飾らないまま語る説得力というものがある。
枯木鳴鵙図の中には、『失敗もあり遊びもある』と感じるからこそ、枯木鳴鵙図は『強者の絵画』ではなく、ある時代を『自分なりの力を尽くして生きた人間』の姿があると思う。
例えば、画面下部の不完全な枝の形を補足するために付け足したさらなる枝や葉の未熟さ、鵙と枯木表現以外の部分の完成度の低さ、霧とも水平線ともつかない説明不十分な横線など、あら探しをすれば何処までも意地悪に見つめることが出来る。
だがその一方で、おそらく自分自身未熟だと分かっていた水墨技法を駆使しながらも、自分の信じた完成を愚直なまでに行っていく『拙』の部分、『工夫』の部分、『困難を乗り越えようとする気概』が画の節々に現れている。
それは私にとって、歴史的な強者としての普遍性よりも遥かに、宮本武蔵という人の大きな魅力であったと思う。
数多くの命のやりとりを経験してなお、
小さな生命に対する共感を失わなかった宮本武蔵
宮本武蔵は、絶対無敵の冷徹で合理主義の塊のような人間ではない。
努力を重ね、自分の信念に殉じ、当たり前の人間と変わらない他者や自然物への共感を持った一人の人間であるということを、画は言葉以外の方法で語り、私に教えてくれた。
そもそも、弱者や他者への共感のない人間に動物は描けない。
絶対的強者だと自らを自負している人間が、小禽(小鳥)の在り方や生命など目に留まるはずがない。
百歩譲って目に留まったとして、それは小禽ではなくて、鷹や鷲などの猛禽類だろうし、武人画としての猛禽の流行は武蔵よりも先行した時代にすでにあり、土岐派などその先例があるので、武蔵がそうした表現を知らないはずもない。
宮本武蔵は、絶対的強者でない自己の心情の吐露の表現として、あえて小禽一羽の孤鳥表現を描いていると考える方が、私には自然なことに思える。
武蔵の弧鳥表現は、枯木翡翠図や竹雀図、遊鴨図、鵜図、蘆雁図、紅梅鳩図など枚挙にいとまなく、そのほとんどの画の主題は、『強者』ではない。
身近な生命の在り方や、内面の静ともいえるものを問うものであり、むしろそうした精神性や、内面性が水墨画的な直截性と適合し、魅力を生んでいる。
剣豪という視点を外して、枯木鳴鵙図の表現を見た時、狩るもの(鵙:モズ)と狩られるもの(芋虫)の対比など、生命というものの深い洞察なくしては、思いつくことさえ出来ない。
アクセントとしての濃墨の配置という意味で、芋虫の表現を捉えることも出来るが、画面の中のアクセントとしての点苔表現は、宮本武蔵は下部の樹木表現にも、枯木自身にも付している。
普通の人間が当たり前のように思いつくのは、どちらかといえば、そうした濃墨の点による視線の誘導であり、わざわざ画面の緊張感を崩すような芋虫の存在ではない。
ここには、明確に、宮本武蔵の絵師としての意図があり、あえてそれを描いてみる自由な精神や遊びがある。
それは、宮本武蔵が水墨画という表現方法を好意的にとらえていた証拠でもあり、瞬発的なその発想にこそ、宮本武蔵の本音が感じられる箇所だと思う。
つまり、宮本武蔵には『小さな生命が見えていた』ということだ。そして、数多くの命のやりとりを経験してなお、生命に対する共感を失わなかった人間ということでもあると思う。
まさしく、『人間力』ともいえる、ある一人の人物の魅力が枯木鳴鵙図の表現にはある。
「先割れ筆」表現と両手での「二刀筆」仮説は、
武蔵には「完成までの速度」が重要だったと認めれば見えてくる
また今回、枯木鳴鵙図を模写するにあたり、宮本武蔵の筆致を研究する段階で発見した『先割れの筆』の表現や、左右の筆を持つ『二刀筆』の表現など、他の絵師にはあまり見られない特殊な表現方法も、宮本武蔵の性格や人間性を表すものとして考えてもいいと思う。
先割れの筆の表現を着眼するきっかけとなったものは、まず、どう考えても立派とは言えない割れた筆の不自然さであり、その『割れ』の規則性だった。
ただのボロい筆では、武蔵が描いているような均一な『先割れ』は起こらないし、画面下部の点苔表現の二つ並んだリズムは説明できない。
模写を始めた当初不可解だった、画面左下部からの枯木の二筆目の筆致、左手で描いたような線の中の偏りも、先割れの筆の癖であるならば、『左手で描いたように見える』ことも説明でき、宮本武蔵が使用していた筆の可能性を考える一助にはなると思う。
(実際、先割れ筆で、『芋虫』を描いてみると、これまでよりも大きく再現度は上がった。)
そうした可能性を考えざるを得ないほど、宮本武蔵の筆致は独特であり、水墨の表現を実際的に行う立場からすると通常の画法とは異なる筆法がところどころ見えてくる。
まともな水墨画家なら、職業絵師ならば、あえて先割れを起こすような筆の用い方はせず、筆を労わり、可能な限り先割れが起きないように筆を育てていきたいというのが本音だ。
だが、宮本武蔵は、『万事において我に師匠なし(「五輪書」地之巻の序文にある表現)』と言い切れるほど独学の人であり、まともな絵師ならばほとんど考えつかないような方法を駆使することにためらいがない。
そこにこそ、宮本武蔵の非凡な発想力を、私は感じた。
実際、研究の過程で、こうした表現の可能性を発見したときは、現代から数百年も離れた宮本武蔵という人物との会話が成立したようで嬉しく、小躍りしたものだ。宮本武蔵とは、こういう人間だったのだ、という人となりを発見した瞬間でもあった。
つまりそれは、宮本武蔵という人は、技術的な不利や、状況的(環境的)な不利を、独自の発想で克服し、それが例えば『完ぺきな表現』とは考え難くても、その中で最善を尽くそうと挑戦してみる性格を持ち合わせていた、ということだ。
完全無欠を目指したわけではない、だが、理のあるところを自分なりの考えに従って行うことを希求した過程が、その筆致から読み取れた瞬間だった。
そうした感性から推測を行い、画や筆致の自然な流れを考えた時、『二刀筆』の表現の仮説は、筆致の統一感という視点から導き出すことが出来た。
先割れをした一本の筆を、一本だけ使い、ゆっくりと枝を描いたということも、もちろん可能性として考えられるが、そうした時間的経過の中で描いたと考えるには、その筆法ではあまりにも悠長すぎた。そう考えるには、枯木鳴鵙図もっと統一感のある筆致だった。
つまりそこには、「完成までの速度」という概念が不可欠で、瞬発的な思考を得意とし、常時勝負に身を置いてきた人間の性格を考えた時、それほど気長に作画を行ったとは考え難かった。
それほど、葉を描き、筆を整え直して、また枝を描き、という手順は面倒くさいもので、地道に一回一回、指先で筆を整えて、画を描いていくという方法は、宮本武蔵の描いた画としては違和感がある。
ともすれば、先割れをしたボロボロの筆を二つ用いて、両手で描いたと考える方が自然であり、数本の先割れ筆を有するほど、武蔵は当たり前のように筆を酷使する人間だった、と考えられた。またそれほど、高価な筆や道具にもこだわりはなかったのだろう。まず、用を考える人柄もここから読み取れる事実でもあった。
この先割れの筆で描いた筆致は、他の武蔵作品の中にも遊鴨図の笹の表現や、達磨図の衣紋線など、数種類見ることが出来、枯木鳴鵙図を宮本武蔵の基準作として考えるならば、その真贋を見定めるための一つの特徴と考えることが出来るのではないだろうか。
「枯木鳴鵙図」模写は時を越えた武蔵との会話
水墨画の素晴らしさを改めて教えてくれた
こうした特徴を鑑みながら、枯木鳴鵙図という画を見た時、宮本武蔵という人間は、
『遊び心にも挑戦心にも満ち、同時に生命への深い洞察力に溢れた人間的魅力を持った人物』
という像が浮かんでくる。
もちろん同時に、極度な集中を要する枯木の一本線の表現や、画面の大部分を使う余白の緊張感を考えれば、剣豪としての要素があり、剣の理を行う人間としての静的表現だと考えるのも頷ける。
よく言われることでもあるが、鵙(もず)の芋虫を狙う一瞬を描いた動的表現と余白と剣豪的静の対比を、画の魅力として当然、考えてもいいと思う。
その静と動の対比は、そのまま、生と死との対比であり、そうした連想を容易に行うことが出来るほど、画の最小単位である一筆の筆致は、剣豪ならでは追随を許さない厳しさで描かれている。
そこには、真剣勝負に慣れ、厳しい現実に身を置くことに慣れている剣豪としての武蔵の顔も十分に感じることが出来る。
だが、それだけを語るには、枯木鳴鵙図という画は、魅力に満ちすぎている。
矛盾するようだが、そうした厳しさがありながらも、そこには遊びもあり、芳醇な人間性もあり、個人の顔が密かに覗く部分があるというところに、私は面白さを感じている。
失敗も成功も駆け抜けてきた人の判断が絵の中に埋まっている、と認識できるほど、枯木鳴鵙図の構成や筆致の中には、『人間 宮本武蔵』が覗いている。
私達が感じる当たり前の人間としての在り方やその人物の魅力が描きこまれている。
また、だからこそ、私達は枯木鳴鵙図が与えてくれる恩恵を、受け取ることが出来る。
古画を研究する意味は、時代を超えて、そうした『人間としての在り方の普遍性』を模索することであり、“文化の意義”というのが『生命に対する共感』を主軸とするものなら、枯木鳴鵙図は、間違いなくその要件を満たしている。
また、水墨画の本質的な魅力とは、そうした『人間としての在り方の普遍性』や『生命に対する共感』を、時代を超え、アクチュアルに感じることであり、“二度と描きなおすことのできない一回性の筆致”という特色は、そうした種々の要素を抽出することに長けている。
日本の文化を顧み、そこに生きた人の知恵を学び、現存的な生の在り方を模索する上で、水墨画全般および、こうした名画の知見は、大きな助けになる。
枯木鳴鵙図は、水墨画の全てではないが、その門口として、これからもそこにあればいいなと思っている。
砥上 裕將 とがみ ひろまさ
水墨画家