2022年5月4日にNHKの番組『歴史探偵』で「壇ノ浦の戦い」の勝敗を分けた理由を調査していました。なかなか面白い考察で、私の長年の疑問も晴れる内容でした。備忘も含めて書き留めておきます。

NHK番組『歴史探偵』の調査のポイント
関門海峡の「環流」と「源範頼軍の遠矢」

番組で伝えていた重要ポイントを、(ネタバレで恐縮ですが…)はじめに再掲します。

  1. 海からの源義経軍の他に、源範頼(義経の異母兄)軍が陸から参戦し、おそらく田野浦あたりから遠矢を放っていたが、そこからの矢は距離的に平家軍に届かなかった
  2. 義経は、禁じ手であった船の漕手(非戦闘員)を狙い、漕手を失った船は潮の流れに任せて漂ったはず
  3. 関門海峡の潮流が東流になるとき、田野浦付近に「環流」が起き、田野浦の岸に向けて船が戻された可能性が高い
  4. その結果、源範頼軍の遠矢が平家軍に届くようになり、義経軍との挟み撃ち状態となり、平家軍は全滅した

壇ノ浦の戦いの通説をよく知らない人、しかも関門海峡の地理や潮流に詳しくない人(普通そうですよね。笑)は、「ふーん、そうなのね。」と思う程度でしょうが、私には「あぁ、なるほど!」とガッテンするような情報でした。

いったいどういうことか? 関門時間旅行独自の見解も加えて詳細に解説していきます。

まずは通説の方を解説します。

壇ノ浦の戦いの通説
戦の途中で東流が西流に変化した…

一番言われている通説は、「戦が長引き、途中で潮の流れが反転し、源氏に有利な西流に変わった」というものでしょう。

壇ノ浦がある関門海峡は、本州と九州を隔てる細長い海峡で、世界的にも珍しいS字蛇行する川のような海です。この海は、一日に4回向きを変え激しく潮が流れる特徴があります。いわば、大きな川の流れが8時間ごとに変わるようなもの。

その流れは日本三大急潮流と呼ばれ(残り2つは鳴門海峡と来島海峡)最大10ノットにも達する激しさです。しかも他の2つの海峡と違い、渦が巻く場もないほど狭いので本当に流れる海。(※激流観察ツアーの様子を見てみてください)

潮流が一日4回向きを変える仕組み

なんでこんなに激しく潮が流れるか?というと、それは月と地球の位置関係。月が地球表面の海を引っ張っているわけです。その際、「広い海」が最も引っ張られるので、関門海峡の東の先にある太平洋が引っ張られると海峡の東の海が高くなり潮は西に流れ、引力がリリースされると太平洋側がぎゅーっと低くなって今度は西から東に流れるという仕組みです。

不思議と、月に引っ張られている面の逆側(地球の裏側)も遠心力によって海が盛り上がります。ですので、大きな太平洋は一日2回引っ張られ(引き潮)、そして太平洋が月と直角の位置にくる時(2回)は引力がリリースされて満潮になるんですね。というわけで一日に4回向きを変えるのです。分かるかな~?

大正時代の学者が唱えた壇ノ浦の戦いの決め手は潮流説

Wikipediaによれば、壇ノ浦の戦いの「潮流説」は、大正3年(1914年)に黒坂勝美という東京帝国大学の歴史学者が自著「義経伝」で示したものなのだそう。引用すれば、以下の通りですが、明らかに間違っていることがあります。

黒板勝美は海軍水路部の元暦2年3月24日(グレゴリオ暦換算で5月2日)の関門海峡の潮流の調査を元に、午前8時30分に西への潮流が東へ反転して、午前11時頃に8ノットに達し、午後3時頃に潮流は再び西へ反転することを明らかにし、合戦が行われた時間帯は『玉葉』の午の刻(12時ごろ)から申の刻(16時ごろ)が正しく合戦は午後に行われたとして、潮流が東向きだった時間帯は平氏が優勢で、反転して西向きになって形勢が逆転して源氏が優勢になったとした。

黒板勝美の説は壇ノ浦の戦いについて初めて科学的な検証を行ったものであり、最も権威のあるものとして定説化して広く信じられるようになった。小説、観光パンフレット類やテレビドラマはもちろん、源平合戦を扱った歴史関係書籍でもこの黒板説を元に壇ノ浦の戦いが記述されている。

Wikipediaより

黒坂教授の説の潮流速度は明らかに間違っています。壇ノ浦合戦の日は、おそらく最速で3~4ノット。なぜ私がそんなこと言えるのか…詳しくは後ほど説明します。

Wikipediaでは上記の後に、近年になって別の先生がコンピューター解析してそれほどの潮流ではなかったことと、最強潮流は「早鞆ノ瀬戸」という最も狭いところで測っており、実際に合戦の現場だったあたりでは潮流は1ノット以下なので源平合戦に潮の影響は無かった…と書いてありますが、これも疑問が残る意見だと思います。

また、合戦の時刻について、『吾妻鏡』には、午前に行われお昼頃に終わったと書かれ、関白九条兼実の日記『玉葉』にはお昼ごろに始まり4時頃に終わったと記されているそうです。

そして、前述の黒坂教授は自説の潮流に合わせて午後に戦った「玉葉」の午後説を正しいとし、ウィキの記事の最後には鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」の午前説が正しいとする意見が根強い・・・と書かれて終わっています。

Wikipediaの記述の正確さはともかく、このあたりを一応、「通説」としておきますが、私:トミタとしてはどちらもスッキリしない感じがありました。

通説がスッキリしない…理由1
・平家が潮流を利用せぬはずがない

まず、昨今言われている「潮の影響は無かったのでは…」という説ですが、「平家が関門海峡の潮流を利用しないなんて考えられない」と私は思います。

日宋貿易によって大きな財力を得てきた平家は、瀬戸内海~関門海峡~博多までの海のことは知り尽くしていたはずです。もちろん、関門海峡の潮の難しさも。

だからこそ、平知盛は平家が一旦落ち着いた屋島を早々に離れ、最終決戦地はここしかないと先に関門にきたのでしょう。もちろん、地形・潮流をさらに日々研究したはず。一年近く時間があったのですから。

旧暦は「月の暦」なので、潮の様子はすぐ予想できる

コンピューター解析をするまでもなく、合戦が行われた日が旧暦3月24日だとしたら、その日の潮が比較的弱いことはすぐに分かります。なぜなら旧暦はお月様が基準の暦で、毎月1日(ついたち=月発ち)は「新月(朔)」15日は「十五夜」ですから。24日は「半月」の翌日です。毎月ね。

一日4度の潮流の理由は前述の月の引力ですが、潮流の強さには太陽の引力も関係しています。月と太陽が一直線になる「満月」と「新月」の後がより強くなり、月と太陽が力を分散させる「半月」の後が弱くなる。つまり、3月24日は関門海峡の潮が最も弱い日だったのです。

ただし、弱いといっても最強時の速度は3~4ノットあります。これは、手漕ぎの船がまともに船をコントロールできる潮ではありません。こちらの釣り人のブログが参考になるでしょう。潮が3ノットなんて釣り人にはお手上げ状態ということ。

https://www.nasamuk.com/nezakana_14.html

関門海峡マリンガイドでその日の潮が一目瞭然

ちなみに、海上保安庁第七管区が、毎年「関門海峡マリンガイド」という素晴らしい無料小冊子を作ってくれています。
インターネットでもPDFで見ることができます。中でも重要なのがその年毎日の潮流予想を詳細に記した「潮流データ表」です。

https://www6.kaiho.mlit.go.jp/kanmon/info/tab/marine_guide_data.html

月の満ち欠けと旧暦では何日かまで出ていますので、これを見ると旧暦3月24日がどんな潮だったのか伺い知れます。当然コンピュータ・シミュレーションなので、調べようと思えば元暦2年(1185年)の潮流も正確に分かるでしょうが、まあそこまでせずとも、上記リンクの数年分を見てみれば、だいたい同じような傾向が分かるでしょう。

旧暦3月24日、東の潮流は年によって少し違うものの、ほぼ朝8時半~9時頃に始まり、11時半~お昼ごろにピークになります。最高速度は3~4ノット

これは、壇ノ浦の戦いの日が3月24日だとすれば、昔も今も確実に変わらない潮流です。

通説がスッキリしない…理由2
・潮は急には反転せず、一旦止まるはず

さて、潮の様子がほぼ分かったところで、もう一度考えてみます。

前述の通り、平知盛は関門海峡の潮を利用したに違いない。それなら東流がどんどん強くなる午前中に戦を仕掛けるに決まってます。

大正時代の黒坂勝美教授は潮流のデータを間違ったのかもしれませんが、潮を利用したという発想には一票です。しかし、潮が反転し西流になって平家が追い詰められるにはすごく時間がかかる。ここが私が長年スッキリしなかったことの第2です。

考えてみてください。潮は8時間おきに向きを変えるのです。平家に有利な東流の潮は、お昼前ごろにピークとなったあとも急に反転はしません。東流のまま徐々にスピードを落とし、夕方4時前ごろにはいったんゼロ…つまり止まるのです。そして反転後じわじわとスピードをあげて、源氏が有利な潮になるのは少なくともあと1~2時間は必要でしょう。

そんなの待っていたら日が暮れます。だいたい、潮をよく知る平家軍が東流のピークを待って昼前に出陣するなんてあり得ないでしょう。朝から徐々に東流が強くなっていくのですから。

NHK「歴史探偵」の解釈ですべてがスッキリ!
平家は潮が反転して負けたのではなく、東流ピークの中「環流」で負けた

これらの私の疑問をすべてスッキリ解決したのが、先日のNHKの番組の仮説です。

平家は、その日3月24日が、関門海峡の潮流としては比較的御しやすい小潮の日だと知っており、腕利きの漕手を集めて朝から攻撃をしたはずです。きっと一旦潮の流れが止まったタイミング、朝8時半~9時ごろでしょう。

義経は少し前に乗り込み潮を研究したという話もありますが所詮は付け焼き刃。源氏軍全体でみれば船軍(ふないくさ)に慣れていないのは否めません。そんな源氏軍にしても潮が止まったこのタイミングなら油断して攻め始めるはず。しかし、30分がたち、1時間たち、どんどん潮の流れがきつくなっていったことでしょう。

そこで、いらだった義経が命じたのが「漕手を射抜け」という禁じ手作戦。行儀のいい公達軍である平家にしてみれば、「まさかそれは無い…」という戦い方に違いありません。

腕利きの漕手を失った船は、潮流に流されるままになります。そしてどんどん東流のスピードが上がり、田野浦海岸での環流も大きくなっていったのが11時半~お昼にかけて

西部海難防止協会の資料右上の図⑤の状態で、田野浦に近づいていく平家の船に、陸地側から源範頼軍が遠矢を浴びせかけ、海からの義経軍と挟み撃ちにした…。

西部海難防止協会の資料から

それで、お昼ごろには戦が終わった・・・『吾妻鏡』の記載どおりとなります。

源平合戦「壇ノ浦の戦い」の顛末は、おそらくこのような流れだったのではないでしょうか。
これですべてがスッキリですね。


さて、そんな関門海峡エリアで「平家物語をめぐる旅」を音声ガイドで聴く新感覚ガイドブック『関門時間旅行ガイド01 平家物語と波の下の都をめぐる旅』絶賛発売中。これを持ってぜひ関門両岸のゆかりの地をめぐってみてください。

関門時間旅行ガイド 01 平家物語と波の下の都をめぐる旅

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文責:富田剛史(とみたつよし)
|関門時間旅行リーダー

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