シンガポール・・・実は、下関市と面積はほとんど同じ。隣国マレーシアとの間をへだてるジョホール海峡を渡る橋の長さも、約1kmで、関門橋とほとんど変わりません。

今でこそ、アジアを代表する貿易港・ビジネスセンターとして発展を遂げたシンガポール。 しかし、ポルトガル、オランダ、次いでイギリスの植民地支配を受け、日本軍の占領統治や、隣国マレーシアとの激しい争いも経験した、数奇な歴史に彩られた都市国家でもあるのです。

世界の海峡都市 #3 シンガポール

海峡都市。
そこでは、兄弟のような二つの都市の真ん中に、世界につながる海が流れています。

関門海峡なら、その幅は、最短でわずか700m。
海峡をへだてて、異なる文化、異なる価値観、異なる存在が向かい合う。

微妙に違うあの町とこの町が、船で、橋で、トンネルで結ばれ、
日常の内側に、「旅」が包み込まれていく。

あちらとこちらの人々が、複雑な歴史と感情を引きずりつつも少しずつ交わり、
そこから新たな文化が創造されていく。

海をはさんだ異文化との接点が日常にとけ込む独特さが、旅人を魅了してやまない、
「世界の海峡都市」の数々をご紹介するこのシリーズ

今回取り上げるのは、シンガポールです。


【国家】シンガポール

【海峡名】ジョホール海峡、マラッカ海峡

【都市名】シンガポール (Singapore)

海峡北岸:ジョホールバル|近隣諸国との交易で活気づくマレーシアの経済都市

海峡南岸:シンガポール|東洋と西洋をつなぐ世界級の貿易都市国家

【両岸最短距離】およそ1200m

【海峡都市エリア人口】およそ610万人

【宗 教】仏教、道教、イスラム教、キリスト教など

まずは、シンガポールの歴史。
ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、日本・・・

マラッカ海峡周辺は、地下資源や水産資源に恵まれる豊かな地域。16世紀初頭、この地を治めていたイスラム王朝・マラッカ王国の豊かさに目をつけたのが、大航海時代のさきがけ、ポルトガル。激闘の末に、1511年、シンガポールを含めた後のマレーシア連邦一体は、ポルトガルの植民地になりました。

キリスト教国・ポルトガルによるシンガポール支配は、インドネシアなど周辺のイスラム教国家との激しい闘争を乗り越えつつ、130年の長きに渡って継続します。16世紀中にはポルトガルが一時、スペインに併合され、さらに状況は複雑になります。

そんな頃、1549年に、ポルトガルとの併合間近で混乱状態のスペインから、キリスト教の宣教師、フランシスコ・ザビエルが、アジアへ到達。ここ、関門海峡の下関にも、ザビエル師の上陸を記念する石碑が残っていますね。

ザビエル下関上陸の記念碑

By Twilight2640, CC BA-SY 3.0, Link

遠くスペインの海から、喜望峰とインド洋を経てやってきたザビエルは、来日前の2回、1545年と1547年に、シンガポールを含むマラッカ海峡周辺を訪れています。

1641年に、オランダがポルトガルからマラッカ王国一帯を奪取。さらに1824年にはイギリス人が入植し、無関税の自由港政策をテコに、シンガポール島を一挙に開発、貿易港としての国際的地位がうなぎ登りに高まります。

ところが、1942年に日本軍の侵攻を受け、イギリスが降伏。シンガポールは、日本の占領統治を受けることになります。 終戦後、いったんイギリスの植民地支配が回復しますが、自主独立運動のあげく、1957年にマレーシア連邦が独立。さらに、マレー系と華僑の内部対立によって、1965年にマレーシアとシンガポールが分離、現在に至ります。

世界大航海時代の16世紀、関門では毛利元就と大友宗麟の時代

以上のように、もともとイスラム教圏であったマラッカ王国に、16世紀頃から、西洋のキリスト教勢力が順番に入り込んでいったのが、この地域の歴史です。

では、16世紀頃の関門海峡の状況はというと?

ここで、ふたりの関門戦国ヒーローズに登場してもらいましょう。

片や、長州藩の始祖、毛利元就。(1497-1571)

元就は、幼くして両親や兄に死に別れ、父の側室であった杉大方(すぎの・おおかた)という養母によって、献身的な養育を受けて育ちます。杉大方は、血縁のない元就の養育に力を注ぐあまり、夫亡き後も終生、独身を貫いたといいます。

元就は、敬虔な仏教徒。養母、杉大方によって、「毎朝、朝日に向かって念仏を唱える」という念仏信仰を教え込まれた元就は、杉大方への感謝の気持ちもこめて、終生それを守り続けたといいます。

そんな元就、実はかなり喧嘩っぱやい性格。70余年の生涯で、闘った合戦はなんと、220。そのほとんどに勝利をおさめています。暗殺や買収、政略結婚などの権謀術数を駆使して、中国地方に覇権を確立。のちに明治維新の主役を張る長州藩の始祖となった、策略家でもありました。毛利家の家紋、一文字に3つの星は、「無敵の軍神」という意味がこもっているそうです。

片や、豊後大分出身のキリシタン大名、大友宗麟。(1530-1587)

抜群の外交手腕で仲間を増やし、最盛期には今でいう北九州から博多、大分、熊本まで傘下に収め、対外貿易で経済力を蓄えつつ、領土を広げた、東九州の先進的な大名です。家紋は「杏葉(ぎょうよう)」これは舶来の馬具ですから、西洋のもの、舶来のものに思いを馳せる家風があったのでしょうね。

宗麟は、1551年にフランシスコ・ザビエルの訪問を受け、それ以降、キリスト教を保護。ポルトガル人の医師を招いて病院を作らせ、日本人医師を育成させて、領民を無償で診療したり。今で言う幼稚園や学校をつくったり。西洋音楽や演劇を奨励したり。晩年、島津氏と闘って籠城するときには、領民すべてを城にかくまい、自ら握り飯を振る舞うなど、文化人的な性格と、心の優しさをうかがわせるエピソードがたくさん残っています。自身が書道や美術、能などをたしなむ、アーティストっぽい一面もあったとか。

そんな宗麟。毛利氏や龍造寺氏、島津氏などと争いを繰り返しましたが、優しい人柄がたたったのか、戦果はさっぱりで、負けてばっかり。せっかく外交手腕で九州じゅうに勢力を広げかけたものの、そのあと戦になると連戦連敗、衰退の一途をたどります。亡くなる前には、居城の豊後臼杵城に追い詰められ、滅亡寸前に。

ところが、島津氏との最終決戦で、頼みの綱・ポルトガルからひそかに輸入した日本初の大砲、その名も「国崩し」を披露。

臼杵城跡の「国崩し」(レプリカ)

By Twilight2640, CC BA-CY 3.0, Link

臼杵城のそこかしこに、合計10門の「国崩し」を据えてぶっ放し、島津軍を震え上がらせ、結果、城を滅亡から守り抜いたのです。斬新な国造りと戦術で世の中をあっと言わせた、クリエイティブな殿様でした。

こんなふたりが、ここ、関門海峡の九州側に位置する門司城(もじじょう)を舞台に、4回も矛先を交えています。1554年から1561年にかけてですね。

関門橋をみおろす、門司城跡

By 上条ジョー, CC BA-CY3.0, Link

宗麟にとっては、元就は、腹違いの弟であり、毛利氏に滅ぼされた下関地方の大名、大内義長の仇に当たりますから、闘いは熾烈をきわめました。勝敗は、勝ったり負けたりの末に、結果的には毛利方の勝利。現代にも名を残す有力大名同士が、互角の闘いを繰り広げたのもここ、関門海峡です。

元就と宗麟、異なる価値観が向かい合う海峡そのもの

こんなふたり。毛利元就と大友宗麟。 それぞれが遺した言葉があります。

これがまさに、相異なる価値観が向かい合う、海峡そのもの。

毛利元就いわく。

「能や芸や慰め、なにごともいらず。

武略、計略、調略こそが肝要。 はかりごと多きは勝ち、少なきは負ける。」

大友宗麟いわく。

「人生における敗北・苦しみは、試練であり、不幸ではない。

灼熱の炎に磨かれる黄金のように、試練によってこそ、人は高められる。」

いかがでしょう。

関門海峡をはさんで向かい合った戦国ヒーローふたり。みなさんは、どちらの価値観に、共感されますか?

海峡都市、シンガポールの今・・・
対岸はマレーシアのジョホールバル、国を超えた一体都市圏

向かい合う価値観が、戦い、争いつつも、交わりあい、調和していく。

そんな海峡都市の魅力をたたえているのは、シンガポールも、関門と同じです。

複雑な歴史を紡いだシンガポール。狭い国土の中ではありますが、いろいろなルーツをもった人々が住んでいます。そこで、彼らはルーツごとに、チャイナタウン、リトルインディア、マレー街などと地域地域で住み分けることにして、いさかいが起こらないように工夫しています。

リトルインディア地区のエスニックな商店街

By Nachoman-au, CC BY-SA 3.0, Link

「地域地域で随分カラーが違って、旅人への温かさも、タクシーの拾いやすさも、地域ごとにずいぶん差がある。このあたり、下関市も、似たような感じを受ける。」

これは、現地へたびたび行き来した経験のある、地元関門の旅行愛好家の方からお聞きした感想です。

1キロ先の「海外」・・・ジョホール海峡をわたるには?

さて、ジョホール海峡をはさむシンガポールの対岸には、マレーシア有数の経済都市、ジョホールバルが位置しています。

ジョホール海峡の架け橋。Johor-Singapore Causeway (全長 約1000m)

ジョホール海峡は、両岸で国家が異なり、イミグレーションが存在。

そのため、渡し舟には不向きで、もっぱらこのCausewayを車で渡るのが主流。

物価や生活費だと圧倒的に、マレーシア側のジョホールバルが安く上がる反面、高給の仕事はシンガポール側に集中しています。それゆえ、ジョホールバルに住んでシンガポールで働き、毎日、国を超えて両岸を行き来する人の数が多く、Causewayの上は慢性的に渋滞。本来は自動車専用なのに、勝手に徒歩で渡る人も多く、「渋滞緩和のためにはやむなし」として、なんと交通当局もそれを黙認している!とか。

マレーシア連邦が分裂し、ジョホール海峡両岸が、華人主体のシンガポールと、マレー人主体のマレーシアへと別れるプロセスでは、軍事的な衝突こそなかったものの、議会の議席数や、境界線などをめぐって激しい争いが起こり、双方の人々の心に傷を残しました。

建国の英雄、 Kuan Yew “Harry” Lee

シンガポールの建国の父、「海峡華人」の異名を持つ、リー・クワンユー。(1923-2015)

現代のシンガポール人が当たり前にもっている英語名を、ごく初期に名乗ったひとりです。

両岸分裂の際には、悲嘆のあまり不眠症にかかり、眠れぬ夜を塗り重ねたと伝わる、英雄 Harry Leeが遺した言葉を、最後に。

「アジアが、政治的にひとつにまとまるのは、100年経っても無理かもしれない。
しかし、経済的になら、数十年もかからず、ひとつになれるはずだ。」

この連載を始めてから、私は3人の子どもたちのために、地球儀を買いました。

そう言えば、いま私がこの原稿を書いている門司大里地区の実家にも、子どもの頃に両親が買ってくれた地球儀があります。

この広い世界がひとつになるときを夢見つつ、海峡都市研究家、ハッシモ隊員こと橋本和宏がお届けしました。

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