関門時間旅行

関門海峡を見守る、エキゾチックな先っちょの正体とは!?

「なんだろう、アレ」
門司から下関へ向けて関門自動車道を車で走らせていると、目に飛び込んでくるエキゾチックな先っちょ。
異国の建物がなぜこんな山の中に、しかも門司港にあるのだろう。いつも気になりながら、そのまま素通りしてきたことが、いかに愚かであったかを、この取材で思い知らされることになる。
下関側からみえる「先っちょ」。明らかに他の「先っちょ」とは異質だ。

関門の潮風を受けて輝く、黄金の聖なる塔へ

周防灘と響灘を眺望できる瀬戸内海国立公園内の「めかり公園」。そんな絶景スポットの脇に『世界平和パゴダ』は建っている。

パゴダとは「仏塔」のこと。仏舎利(釈迦仏の遺骨等)や法舎利(経典)を安置する神聖な施設である。日本ではもっぱら「ミャンマー(ビルマ)様式の仏塔」を指すが、門司港の「世界平和パゴダ」だけが国内唯一の正統なパゴダであるという。

この「関門時間旅行」の研究隊員に任命されてからは、これまで気になっていてもスルーしていたアレコレに、勇気を出して踏み込むようにしている。

拝観料200円を入れ、門をくぐる。本堂の中へ入ってみると、金色の仏像、お花、お供え物、写真や位牌がずらりと並べられている。日本のお寺とはまるで様式が違うので、なにをどうしていいのかわからずウロウロしていると、一人の女性が入ってきて「こうして祈るのよ」と、一枚のペーパーを渡してくれた。そこには五体投地の祈りの方法が写真つきで説明されていたので、見よう見まねでやってみるが、たどたどしいこと極まりない。

うーん、すべてがおぼつかない。もっとパゴダのことを身近に感じる方法はないか…と思っていると、「瞑想・法話教室」のチラシを発見、出直して参加することにした。毎週土曜日に開催される「瞑想・法話教室」は、本堂より下った場所にある僧院で行われる。仏壇の前に柿色の袈裟をまとったミャンマー(ビルマ)のお坊さんがパーリ語でお経を唱えたあと、30分ほど瞑想。そのあと住職の法話に耳を傾ける。信徒でなくても、まったくの初心者でもOK、関心があれば誰でも気軽に参加できるし、心身を整えるにはよい機会にもなるだろう。

それにしても、どうして日本で唯一の本格的なパゴダが、門司港の、関門海峡をのぞむ高台に建っているのだろう。門司港とミャンマー(ビルマ)にどんな繋がりがあるのだろう。そんな率直な問いから時間旅行へ出かけることになった。

ビルマで散った命への慰霊と平和の祈りの場だった

ここから、少し昭和の門司港をふりかえる。
かつて石炭の積み出しや国際航路の港として栄えた門司港も、1931年の満州事変以降、戦争の渦に巻き込まれていった。1937年には日中戦争が、1941年に勃発した第二次世界大戦時では約200万人もの若者を大陸や南方の戦地へ送り込む一大拠点となった。イギリス占領下にあったビルマに日本軍が進攻するため、ビルマ戦線には30万人以上が送り込まれたが、約19万人もの方々が戦闘や病気、餓えにより命を落とした。帰還できたのは半数程度。戦地へ赴いた多くの若者たちが、最後に目にした祖国の風景は門司港であり、関門海峡であったのだ。

敵に動きを悟られないよう、出航は夜。一旦周防灘へ進み、深夜になって密かに方向転換、日本海を抜け南方へ向かったともいわれる。真っ暗な関門海峡を通過するとき、船上で若者たちは静かに敬礼をし、祖国に別れを告げたという話も耳にした。そういえば昔、父親から、戦地へ赴き、異国の地で亡くなった兄弟がいたと聞いたことがあるが、私の祖先も関門海峡の風景を胸に焼きつけ、出兵した一人だったのだろうか。

関門渡船のほど近い場所に「門司港出征の碑」が建つ。その脇には、兵士とともに戦地へ運ばれた軍馬の最後の水飲み場も残されている。

門司港のパゴダは、ビルマ戦線で亡くなった方の慰霊を目的に建立、現在もミャンマー仏教会から派遣された二人の僧侶が日々祈りを捧げ、修行を続けている。なぜ異国の宗教施設が門司港にあるのか、地元の人や書物、過去の新聞を掘り返していたところ、『パゴダへの道』という本にたどりついた。

『パゴダへの道』はビルマ戦線から生還した市原瑞麿さん(故人)が朝日新聞西部本社編集出版センターの協力を得て1988年(昭和63年)1月に自費出版したもので、世界平和パゴダを発願した当人による手記である。上巻「収骨の旅」・中巻「建立秘話」・下巻「建設管理運営編」の3部構成の予定だったようだが、上巻・中巻は門司図書館にはあるものの、下巻はどこを調べても見当たらない。「下巻は執筆中」という新聞記事を見つけたものの高齢での執筆だったため、叶わなかったのだろうか。とはいえ、上巻・中巻だけでも、あまり伝えられることのない、世界平和パゴダ建立の背景や思いが克明に記録されており、貴重な資料となっている。

後世に伝えるために自費出版で刊行された『パゴダへの道』は、未完のままのようだ。

建立までの経緯はこうだ。
1955年2月、ビルマから帰還した後、戦地で亡くなった戦友たちが市原さんの夢枕に立つ。遺骨を日本に持ち帰ることができなかったことを悔やみ続けていた市原さんは一念発起、遺骨収集とともに、慰霊と平和を祈るためのパゴダを建立したいと、当時の門司市長・柳田桃太郎氏に協力を要請し、戦地へ送り出した門司港や関門海峡を眺望できるめかり公園の一角に建立を計画する。同年、日本とビルマは平和友好条約と賠償協定に調印、国交が開かれたこともあり、活動は勢いづいていく。

同時に、未帰還遺骨収集運動の団体である「ビルマ・マンダレー会」を結成、市原さんを中心に遺骨収集の運動が全国で展開。日本とビルマ政府の協力のもと、翌年1956年にはビルマでの遺骨収集を開始、草の根的に調査収集し、遺骨1351体、遺留品14点等とともに帰国を果たした。

そもそもパゴダは宗教施設であり市が直接管理できないことから、市原さんを代表に「世界平和パゴダ建立委員会」を発足、建立を推進した。建設工事費は4000万円。それぞれビルマ政府仏教会とパゴダ建立委員会が折半したという。そうして1958年9月9日、駐在するビルマの僧侶4名を迎え、落慶式を開催した。建立当初は、パゴダ、僧院、戒律室、研修道場のほかに、東南アジア民芸を紹介するコーナーも併設されていたという。慰霊と平和の祈りの場だけでなく、日本とビルマの文化交流拠点としての役割もあったようだが、残念なことに現在は閉鎖されている。ちなみにパゴダ完成の年に、関門海底国道トンネルも開通している。

来年は建立から60年を迎えるが、2011年12月に僧侶の不在と運営資金難を理由に閉館した時期もあった。閉館を惜しむ声、復活を願う声が続々と集まり8ヶ月後には再開されている。現在は「世界平和パゴダ奉賛会」が運営を支えており、冠婚葬祭業を営む株式会社サンレー(北九州市)が事務局として、細やかな支援を行なっている。

再開を懇願する声が押し寄せたのは、戦没者の遺族や帰還された方々からだけでなく、門司港の人たちからも多く届いたという。門司港界隈に住んでいる方に尋ねるとたいがい「昔、袈裟をきた異国のお坊さんが托鉢する姿を見かけた」と話してくれたし、「気さくに声をかけてくれていた」「悩みごともよく聞いてもらっていた」という人もいて、地元の方々とも親交を深めていた様子が伺える。

地元の方たちに親しまれた、あるお坊さんの話

門司港のパゴダに長年在籍した僧侶とのエピソードに、必ずといっていいほど名前があがるのが、ウ・ケミンダ大僧正だ(2011年12月逝去)。パゴダ建立の前年1957年に来日して以来50年以上、門司港のパゴダで祈りを捧げ続けた僧侶で、ビルマ語、英語だけでなく、日本語もあらかた話せたので、積極的に街に繰り出し、市民の方々とも交流をしていたようだ。

ウ・ケミンダ大僧正と親交のあったという内山昌子さん(門司在住)によると、高校生のころに友達とよくパゴダへ遊びにいき、ウ・ケミンダ大僧正のもとへ英語の教科書を持っていき英語を教わったり、ビルマ語で自分の名前をかけるように練習したり、パーリ語でのお経を暗唱できるまでになった(今でもスラスラ唱えられる!)。日々のできごとを綴った手紙も送りあい、日本語の文法的なまちがいがあれば正してあげたり、他の僧侶たちにも日本語の読み書き、漢字の成り立ちなど含めて教えていたという。内山さんは門司郷土会の会員で観光アドバイザーとして長年活躍されている方でもあり、要望があればパゴダを案内することもある。

また、門司港にあるカフェ「グリシンカフェ」の有門涼さんも幼少のころ、自宅がパゴダが見える場所にあったことから愛着を抱き、交流を図ってきた。昔、ウ・ケミンダ大僧正に人生相談した際、背中を押されたエピソードも懐かし気に語ってくれた。有門さんは、パゴダ周辺に生い茂る樹木の整備を進める運動も推進しており、並々ならぬ思い入れを抱いているようだ。これらは、ほんの一部の思い出話ではあるものの、門司港のパゴダの存在は、宗教や異国文化の枠組みを越えた”よりどころ”の一つにもなっていたことが伺える。

現在、ネミンダ住職とマーガワ比丘、通訳で世話役のウィンミンさんが昨年4月より暮らしている。「ミャンマー語や瞑想に興味のある方、お気軽にお越しください」と歓迎しているので、ぜひ足を運んで「ミンガラーバ(朝昼晩共通の挨拶)」と声をかけてみてほしい。ただ上座仏教の戒律に従い、食事は1日2食のみで正午までにすべて済ませるので、訪ねるなら午後から夕方のほうがゆっくり対対応していただけるだろう(あらかじめ電話を入れておくと確実)。拝観の際には、お米や果物など保存のきく食品をお供えすると喜ばれる。なぜなら生産活動や経済活動は戒律で禁止されており、托鉢やお供え物、寄付のみで暮らしているからだ。

ネミンダ住職。「近年、日本の企業が次々にミャンマーに進出して大きな経済の交流が始まっていますが、文化や人々の交流がもっと活発になることを期待しています」

マーガワ比丘はiPadに経典を入れて学んでいる。facebookにもアカウントを持っており、今どきのお坊さんっぽくて親近感を抱く。週に一度、日本語教室にも通う。お気に入りの言葉は「大丈夫」。

これぞ門司港の味。ビルマうどんは食べるべし!伝え続けるべし!

好奇心の赴くままにパゴダの取材を進めていくと、次から次に情報が舞い込んでくる。その中で、これぞ門司港の味!と激オシしたい逸品と出会った。その名も「ビルマうどん」である。

ビルマの煮込み料理と「うどん」という、ビルマと日本の食文化交流の一つの成果といえる。保存料、化学調味料は一切使わない。ビルマうどん(650円)。お持ち帰りあり。

もともとは門司港にあった『玉寿司』の名物料理。店の大将が第二次世界大戦の際、ビルマで捕虜となった時に現地で教わったカレー風味の煮込み料理をベースに、まかない用にうどん玉を入れたもの。店のお弟子さんとともに改良して「ビルマうどん」として提供したところ、大人気メニューに。当時は香辛料などが手に入らないため、門司港に出入りしていた外国船の船員に依頼して、香辛料を持ち帰ってもらい、現地の味そのままを再現していたという。『玉寿司』のお弟子さんが独立して構えた『千代本』でもビルマうどんを出していたが、大将が体調を崩して閉店を余儀なくされ、その後『玉寿司』も閉店し、しばらく幻の味となっていた。

あの味を絶やしてはならぬと熱い想いで立ち上がったのが、『花千里』の鶴田美穂さんだ。幼い頃から剣道を習っていた鶴田さんは、剣道の師匠でもあった『玉寿司』と『千代本』の大将とは交流があり、ときおり家族で食べにいった「ビルマうどん」が大好物だった。どちらも閉店してしまい心底残念に思っていたが、40歳になったのを機に、ビルマうどん再興のため、もっといえば「自分が食べたいから」という理由で一念発起。『千代本』の大将の体調が快復した後に2年かけて説得し、自宅へ押しかけ作り方を学んだ。納得の味に仕上がった時点で、JR門司駅近くに『花千里』を2011年に開店、ビルマうどんを復活させた。

早速、いただいてみた。「カレーうどんみたいなもの」という前情報はあったけれども、いやいや、これは別モノ、堂々たる「ビルマうどん」です。サラサラとした削り節と昆布の出汁に、ほろほろ崩れる手羽元が浸る。ブレンドされた香辛料の繊細な辛味がほどよく、スープの旨味とともにカラダに染み込んでいく。食べたあとも半日はカラダがほかほかなのには驚いた(個人差あります)。お好みによって、唐辛子を1本、2本、3本…と追加することもできるので、辛いもの好きな方はリクエストを。

もちろん、一人の女性が地道に守り続けているのは、味だけではない。かつて門司港から出兵し、無事帰還を果たした『玉寿司』の大将の戦地での経験と、ビルマの人たちや僧侶との交流、地元の方々の胃袋をつかんだ数々のエピソードなど、この地に宿る記憶をまるごとパッケージしたかのような、門司港が伝えつづけるべき食文化なのである。もう病みつきです。ああ、食べたい。

『花千里』の鶴田美穂さん。以前はスナックのママだったそう。ビルマうどんは色々とアレンジが楽しめるので、チーズを入れてほしいとか、鍋料理にしたいなど、お客さんのリクエストに丁寧に応えてくれる。

かつて門司港パゴダの僧侶も来店。左端は味を伝授した『千代本』の大将。

いかがだっただろうか。門司港の山の上に、ちょこんと見えたエキゾチックな先っちょを起点に、ただ好奇心の赴くままに取材を続けたわけだが、書物をあたり、現地を訪ね、人に話を聞く度に門司港に刻まれた痛烈な記憶が立ち上がってきた。正直、今回の取材で痛感したことは、ネットだけで知った気になってはいけない、ということ。現地へいこう。関門海峡や関門橋、門司港レトロも見守る、あのパゴダへいこう。ビルマうどんを食べようよ。

戦後70年、戦争の記憶が風化しつつある今、「世界平和パゴダ」も老朽化が深刻だ。周辺の樹木は生い茂り、関門海峡も望めなくなっている。当時、建立に尽力された方々もご高齢となり、お話を聞く機会もほとんどなくなってしまった。寄付で成り立つ門司港のパゴダを支えるのは、もちろん地元の力が不可欠だが、地元でなくても、また信徒でなくても、この国の平和を祈り続ける象徴としてその歴史や背景を学び、真剣に向き合う時期なのではないか。そんなことを考えた今回の時間旅行であった。

門司港、掘れば掘るほど情報ざくざく。この旅は終わりそうにない。

めかり公園の展望台から門司港を臨む。門司港のパゴダは平和へのメッセージを発信し続けている。

 

【門司港の世界平和パゴダを知るためのオススメ本】

『パゴダへの道』上巻・中巻/市原瑞麿(※自費出版)
本文中で紹介したように、門司港にパゴダ建立を発願した本人が、建立までの経緯を記録した貴重な本。自費出版ゆえ部数が少ないのか、今ではほとんど入手できないが、著者の思いが言葉の端々に宿る。この本がなければ、門司港パゴダの背景を知ることができなかったし、ここまで熱を入れて取材を続けられなかったと思う。下巻が刊行されなかったことも残念でならない。

『物語 ビルマの歴史 王朝時代から現代まで』根本 敬(中央公論社刊)
門司港のパゴダを知るには、やはりビルマ本国の歴史、社会、宗教観を知らなければならない。本書は多民族、多言語、多宗教国家という、一筋縄では解説できないビルマを体系的に知ることができるバイブル。ビルマ人が日本人に親近感を抱く理由もわかるし、映画化された小説『ビルマの竪琴』は本来のビルマが描かれていないというのも、ビルマ近現代史を専門とする著者ならではの指摘だ。

『ミャンマー仏教を語る 世界平和パゴダの可能性』(現代書林)
井上ウィマラ/天野和公/八坂和子/一条真也
2012年8月、世界平和パゴダの再開を記念し開催された「門司 世界平和パゴダ建立五五周年記念 仏教文化交流『仏教が世界を救う』シンポジウム」の内容を簡潔にまとめた本。前半は門司港パゴダの建立のいきさつや現在の支援活動、後半は仏教を通して日本とミャンマーの共通点を浮かび上がらせ、門司港パゴダが果たす役割について語り合う。

【アクセス情報】
「世界平和パゴダ」
福岡県北九州市門司3251-4 TEL 093-321-1033
世界平和パゴダ奉賛会(株式会社サンレー内) TEL 093-551-9950
http://www.worldpeace-pagoda.net/
開館時間 6:00~18:00
拝観料:200円
※交通手段は車のみになるが、甲宗八幡宮脇の山道を登山するコースも(約15分)。

ビルマうどん「花千里(はなせんり)」
福岡県北九州市門司区柳町2-3-17
TEL093-381-8833
http://hana-senri.com/
営業時間11:30~14:30/17:00~20:30
定休日:日曜・月曜
JR門司駅から徒歩5分(不老通り)
Pなし(近隣にコインPあり)

【補記】「ビルマ」と「ミャンマー」という二つの呼称が混在して読みにくかったかもしれない。ご存知とは思うが、ここには複雑な内政事情がある。王朝時代(11~19C)から、書き言葉は「ミャンマー」、しゃべり言葉は「バマー」(オランダ語でBirmaと表記)と使い分けられていた。意味に違いはなく、いずれも狭義の「ビルマ民族」を指したが、1989年6月に軍事政権が突如、国名を「ミャンマー」に変更すると宣言。ミャンマーは「国民全体」を意味し、ビルマは「ビルマ民族」とする解釈を打ち立てた(参考『物語 ビルマの歴史』より)。歴史的根拠に欠けるとしてビルマのまま表記するものや、政府が規定したことだからとミャンマーに統一するもの、ミャンマー(ビルマ)と補足を添えるケースもある。ここでは、「ミャンマー仏教会」、「ビルマうどん」等の固有名詞にはそのままに、必要と思われる箇所に対しては、適宜、ビルマ(ミャンマー)などと補足するようにした。

About The Author

関門プロデュース研究隊海峡都市の編集職人中野 由紀昌
山口県下関市出身。陸上競技の強豪校として知られた長府高等学校の短距離選手として、日々、強靭な肉体と猪突猛進の精神を叩き込まれる。

高校卒業後、陸上選手として北九州市の企業に入社するが約3年で退社、日本デザイナー学院(福岡市)に入学し、デザイン・編集の道へ。福岡市の出版社で雑誌編集に5年ほど携わったあと、独立。同時期に開校したイシス編集学校に入門、それまでの「編集」の概念が一掃、多様性と可能性に満ちた「編集工学」の虜となる。

現在は「EDIT OFFICE 瓢箪座(ひょうたんざ)」で、印刷物や催事の企画・編集・DTPのほか、地域に編集的な場づくりをもたらすべく、九州支所「九天玄氣組」での活動や、MUJIBOOKSなど書店でのブックワークショップを展開中。無類のひょうたん好き♪

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