関門時間旅行

天皇をおいて、関門海峡を越えて単身赴任の夫に逢いに行った紫式部の娘・大弐三位

天皇をおいて、関門海峡を越えて単身赴任の夫に逢いに行った紫式部の娘・大弐三位

関門人物伝、初の女性は紫式部の娘!

関門人物伝(イキザマ・ミュージアム)も早いもので7回目ですね。これまでの6回を振り返ってみると、第3話の僧 清虚(withブラントン)を除けば、平知盛、宮本武蔵、高杉晋作・・・みんなサムライ、戦う男たちです。全体を、源平合戦で平家が亡ぶところから始まり、徳川幕府が亡ぶ契機となった幕長戦争で終わる関門海峡を舞台にした物語(仮に「KANMONサムライ物語」としておきましょう)として捉えているからです。
まだまだ、登場していないサムライたちが舞台の袖で出番を待っていますよ。足利尊氏、大内義長、毛利元就、大友宗麟・・・。

しかし、今回は、ちょっと趣向を変えて、「KANMONサムライ物語」の幕が開く前を覗いてみることにします。
主人公は紫式部の娘、大弐三位(だいにのさんみ)です。

そう、関門人物伝で初の女性です。それも、筆者(歴史ザムライ)には似つかわしくない雅(みやび)な女性なのです。

バツイチ→ お一人様歴10年
→ ぱっとしない中年男 高階成章と結婚した大弐三位

大弐三位と関門海峡はどういう関係があるのでしょうか? その前に、この女性のプロフィールを紹介しましょうね。

大弐三位

大弐三位、本名は藤原賢子(けんし or かたいこ)。長保2年(1000)ごろ、紫式部と藤原宣孝の間に生まれますが、宣孝は翌年流行り病で亡くなりますので、紫式部ひとりの手で育てられます。
紫式部が何事も慎重で、感情を表に出さないタイプだったといわれますが、娘の賢子は明るく、情熱的で、細かいことにこだわらない性格に育ったようです。宮中でも人気者になっていきました。

20代後半に、道長の甥、藤原兼隆と結婚しますが、親仁親王(のちの後令泉天皇)の乳母となったため、兼隆とは疎遠になり離婚します。
10年後に二度目の結婚をします。お相手は高階成章(たかしななりあきら)という人。高階家は藤原家に比べると格が低く、しかも成章自身、賢子より10歳年上の中年男です。どういういきさつで結婚に至ったかは定かではありませんが、興味がありますね~。
長歴2年(1038)には男児(為家)を産みました。

夫の高階成章の転勤決定。 そのとき、妻・賢子は・・・

高階成章は天喜2年(1054)、大宰府の大宰大弐という職に就任し、赴任することになりました。大宰大弐とはまあ、九州支店の次長といったところです。一方、妻の賢子はいわば社長室長。即位した後冷泉天皇の典侍(てんじ)という側近の職についていましたので、同行はできません。単身赴任するしかありません。
なぜ、高階成章が大宰府に転勤になったのか理由は定かではありません。小説『猪名の笹原かぜ吹けば』で、作者の田中阿里子さんは大弐三位と高梨成章の会話を通じて、次のように推測しています。

「あなたももう老齢でいらっしゃるのだから、遥任(ようにん)を願い出たらどうですか。遠地でのご苦労は無理と思いますよ」
「いやまだ働ける。心配するな」
と成章はひどく勇み立っている。
「それになあ、遥任などぜいたくな事をいってたら、こんな重職はわしには廻ってこんよ。それに現地へ行けば位を上げて貰えると思う」
成章は思わず本音を吐いて賢子を苦笑させた。
※註 遥任(ようにん)=地方官に任命された者が現地に赴任せず、京にいて収入だけを得ること。

ところで、賢子はなぜ、「大弐三位」と呼ばれるのでしょうか? 大弐は夫の成章の官職・大宰大弐からとり、三位は賢子の位である従三位からとったものです。賢子は典侍になっていたので、従三位という高い位を得ていたのです。(このころ、夫の成章は正四位下か?)

紫式部

ちなみに、母親の紫式部も本名ではありません。本名は分からないのです。紫式部という名は、本人の死後、彼女の作品『源氏物語』の登場人物、紫の上にちなんで付けられたという説が有力です。

愛しい夫に逢うために、瀬戸内海を下り、関門海峡を渡る

さて、夫を送り出したものの、賢子さんは心配でたまりません。思い余って、夫に逢うために大宰府まで旅をしようと思い立ちます。細かいことを気にせず、おおらかな性格とはいえ、典侍という要職を一時離れるのですから思い切った決断です。当時は有給休暇などないでしょうから、後冷泉天皇を拝み倒して許可を得たようです。2回にわたって大宰府へ出かけています。

当時の船旅は都から関門海峡まで、おおよそ20日かかったと考えられています。
2回目の往路、関門海峡にさしかかったとき、潮の激しさに対して、次の短歌を詠みました。1行目が詞書(ことばがき)。2行目が短歌です。

後のたび 筑紫にまかりしに 門司の関の波の荒ふたてば
ゆきとても おもなれにける 舟路に 関の白波 こころしてこせ

(超訳)
二回目の旅だけど、やっぱり関門海峡の潮流はほんとうに激しい!
往路もだいぶ慣れてきた船旅だけど、関門海峡の荒い白波だけは心して越えなさい。

 

大弐三位はこの歌以外、紀行文や日記を残していません。ただ、歌の字間から思いを汲み取るしかありませんが、私は、「関門海峡の荒い波を越えていけば、夫の待つ大宰府はもう少しだ」という万感の思いを感じとりましたね。

さて、大弐三位以外にも、歌や紀行文で関門海峡の潮流を詠んだ旅人がいます。ここでは3人の旅人をご紹介しましょう。

宇治川の早瀬よりもすごい! と、武将歌人・今川了俊

まずは、武将歌人・今川了俊(貞世)です。
応安4年(1371)、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあきら)の側近だった今川了俊が九州探題に任命され、九州の南朝勢力を制圧するために、海峡を渡ったときに書いたもの。関門海峡の潮流を宇治川の急流よりも激しいと表現しています。

しほのみちひ(満ち干)ほどは宇治の早瀬よりも猶、おちたぎりためり

(超訳)
関門海峡の潮の満干ってやつは、宇治川の急流よりもっと激しく水が落ち流れまくっているようだ!

潮の速さは矢のようだ! と、放浪連歌師・飯尾宗祇

次は飯尾宗祇(そうぎ)。
室町後期の連歌師です。文明12年(1480)に、周防の大内政弘の招きによって山口に下っていた宗祇が、さらに海峡を渡って豊前、筑前を旅したときの紀行文『筑紫道記(ちくしのみちのき)』には、次のように描かれています。

赤間関はやとも(早鞆)のわたりにいたる。塩(潮)のゆきかひ、矢のごとくして、音に聞しにかはらず。

(超訳)
下関の早鞆の瀬戸(壇ノ浦)の渡舟場についた。潮の流れはまるで矢のようで噂に聴いてた通りだな。

また、次の句を詠んでいます。この句碑が和布刈神社に建っています。

舟みえて 霧も迫門(瀬戸)こす あらしかな

(超訳)
嵐になって関門海峡の霧がサーッと消えてようやく舟が見えた。
霧のヤツも嵐に乗って海峡を渡っていったようだな。

海峡の風が気持ちいい! と芭蕉の弟子・各務支考

次は松尾芭蕉の弟子で、十哲のひとり、各務(かがみ)支考です。芭蕉の没後、地方行脚を重ねて、蕉風の普及に努めた俳人です。元禄11年(1698)4月、大坂を出て熊本、長崎、福岡を旅したことを『西華坊梟(せいかぼうふくろ)日記』に記しています。
5月29日、下関に泊まったときの日記と発句は次のとおりです。

今宵は下の関につきて、流枝亭(下関在住の俳人宅か?)に宿す。
欄干(宿の部屋の手摺り?)に風わたりて、雲臥(横になって寝ること)衣裳さむし。
されば、文字(門司)・赤間の二関は、筑紫中国のさかひにして、
海のおもて十余町(1町が110m)にさしむかふ。
壇の浦といふも、此のほどなるべし。

関の灯の あなたこなたを 夕涼

(超訳)
灯りが関門海峡のこちら側にもあちら側にも見え、海峡を渡る風に夕涼み・・・

潮の激しさを強調する作品が多い中で、これは癒し系ですね~。

Photo by 四宮佑次

 

KANMONサムライ物語から、新たな物語へ

さて、大弐三位に戻ります。冒頭で私は、「KANMONサムライ物語」の幕が開く前のことに言及しましたが、それが、大弐三位とどう関わるのか説明しなければなりませんね。

「KANMONサムライ物語」の幕が開くと、まず最初に颯爽と登場するのは間違いなく平清盛でしょう。清盛は、高階成章が就任した大宰大弐に就任して日宋貿易の実権を掌握して、成り上がっていきます(くわしくは、関門人物伝第4話「平清盛と関門海峡の意外な関係」をお読みください)。そこから、まさにKANMONサムライ物語が始まるのです。

平清盛。実は、大弐三位と縁があります。大弐三位と高階成章の間に産まれた高階為家の孫・基章の娘が平清盛に嫁ぐのです。清盛の子(重盛や基盛)に紫式部や大弐三位の血が入っていると思うと、歴史の奥深さを感じますね。

「KANMONサムライ物語」の幕開け前に大弐三位の歌を通して思いを馳せてきました。では、物語の終わりを告げる詩歌はあるのでしょうか。

私は、高浜虚子の次の句だと思っています。

夏潮の 今退く 平家亡ぶ時も

(超訳)
今、私の目の前で、夏の関門海峡の潮が流れていく。そしてそれは平家が滅んだあの日も同じだったのだなぁ。

「今」と「平家」というキーワードに、KANMONサムライ物語のすべてが語り尽くされているような気がしますね。
この句碑が昭和31年(1956)、和布刈神社の片隅に建立されました。今日も潮流を見下ろしています。

大弐三位が「こころしてこせ」と詠んでから、高浜虚子の句碑が建立されるまで、ほぼ900年です。
900年の時空を超えた壮大な物語は、近代というエピローグを含めつつ、確かに虚子の句の中で終わっているのです。
だとすれば、次の物語は、どんなテーマで、いつ始まるのでしょうか?

え? もう始まっている?

ということで、今回の風変りな関門海峡人物伝はこれでおしまい。次回からは、また、懲りないサムライたちが登場します!

About The Author

関門プロデュース研究隊関門の歴史ザムライ小野 剛史
郷土史家 行橋市在住
「小倉藩の逆襲」ブログ連載中http://759700.cocolog-nifty.com/blog/ 
著書に『豊前国苅田歴史物語』(花乱社)
   『峠を出でて奇兵隊を撃て 幕末小倉藩物語』(幻冬舎)

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