夏潮の 今退く 平家亡ぶ時も
俳人・高浜虚子が関門海峡の潮流を見て詠んだ句です。
門司の和布刈(めかり)神社の片隅に句碑が立っています。その上を関門橋が走っています。
目の前は関門海峡で一番狭い早鞆(はやとも)の瀬戸。約700メートル向こうに下関市街が見えます。
海峡はまるで川のようです。ただ、川と違うのは、流れの向きが1日4回、変わることです。周防灘から響灘へと流れる西流れ、逆の東流れが交互に来るのです。その原因は干満の差(周防灘3.8m、響灘1.5m)にあります。それは太古の昔から、休むことなく続いているのです。
この潮流の変化が源平合戦で平家を滅亡に導いたという物語に、高浜虚子は思いを馳せています。事実、今から832年前の寿永4年(1185)に、いわゆる壇ノ浦の戦いで、平家が滅び、勝った源氏の武家政権が誕生したのです。
と、いうことで、今回の関門人物伝は源平合戦と関門海峡の関係に焦点を当てます。
天才 平清盛が築いた平家繁栄の元は関門海峡にあった
平家は戦いの場に関門海峡を選んだのか? その答えを導くには、平家が政権を奪取した背景にまで遡らなければなりません。平家政権の誕生にも関門海峡は大きく関わっているのです。
突然、話は変わりますが、古代、都の公家にとって、九州の大宰府に赴任するということは、左遷のイメージが強いですね。藤原広嗣しかり、菅原道真しかりです。ところが、大宰府のナンバー2である太宰大弐という職に就いて喜んで九州に下って来た男がいます。
平清盛です。
清盛が大宰府任官を望んだ理由は日宋貿易です。実は清盛の父、忠盛が肥前国(佐賀県)神埼荘を管理する責任者になったときに日宋貿易のことを知り、独自に取引をして収益を上げていたのです。
「日宋貿易を本格的にやれば巨利を得ることができる!」と直感した清盛は貿易を管轄する大宰府を掌握したかったのです。
清盛は貿易のために太宰府の近くに博多に港を整備します。これは人工的に造った最初の港といわれています。それから、終点である福原(兵庫県)の大輪田泊(おおわだのとまり)を修築するとともに、途中の音戸(おんど)の瀬戸の開削など博多~福原の瀬戸内海ルートの整備を行いました。
さて、関門海峡です。日宋貿易ルートは当然、関門海峡を通ります。瀬戸内海への入口であり、事実上の入国ゲートといってもいいでしょう。貿易船のチェックができるのは、狭い関門海峡以外にはありません。
和布刈神社近くの小さな公園に静かに石碑が佇んでいます。門司関の碑です。そうです、和布刈神社付近は古代からの海の関所である門司関があったのです。そして、この門司関は大宰府の出先機関だったのです。つまり、清盛は大宰府を掌握することで関門海峡も支配できたのでした。
また、航海の安全を確保するために、清盛は瀬戸内海の水軍・海賊を手なずけていきます。伊予(愛媛県)の河野氏、阿波(徳島県)の田口氏などです。決して力で抑えるのでなく、利益を保証するウィン・ウィンの関係を築くことに成功したのです。
日宋貿易で巨万の富を得た清盛は、その資金力で政治工作を行い、ついに平家政権を樹立しました。政権を握った清盛は全国の重要な地点を知行国として直接支配します。長門・周防国も知行国にし、関門海峡を平家のフランチャイズ(本拠地)にしてしまったのです。
平清盛はそれ以前の摂関政治とも、それ以後の武家政治とも違った、全く独自の国家観を持っていたと思います。海洋国家、重商主義国家です。その完成形が福原遷都ですが、残念ながら、強引すぎて反発を買い、平家の衰退へと歴史は変わっていきます。
治承5年(1181)、清盛は、かつて命を助けた源頼朝の挙兵で混乱する中、息を引き取ります。
天才の後を継ぐ者のツラさ・・・平宗盛、知盛兄弟の命運
清盛の後を継いだのが三男の平宗盛。長男の重盛、次男の基盛はすでに亡く、順当な家督相続ですが、この宗盛、ちょっとザンネンな人だったようです。どの読み物や歴史書を読んでも、あまりよく書かれていません。暗愚で臆病でただ人当たりがよいだけの人物として描かれています。
一方、四男の知盛は冷静で洞察深く、勇気のある優れた人物として描かれています。もし、知盛が全権を掌握すれば平家の運命も違ったかもしれませんが、知盛は兄を押しのけることはしませんでした。実は、知盛は病がちで、治承4年(1180)には重態に陥って死線をさまよい、奇跡的に回復したという体験をしていました。そのことが、知盛から野望を奪ったのかもしれません。
宗盛には劣勢を挽回する術もなく、寿永2年(1183)、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、拠点である大宰府を目指します。しかし、九州の豪族、緒方惟義の裏切りで果たせず、門司の柳ヶ浦に仮の御所を設けます。御所を意味する内裏(だいり)が大里という地名になって、今に名残りを留めています。
その後、源氏の内紛の間に、平家はいったい勢力を盛り返し、讃岐(香川県)の屋島に御所を移して、福原の一の谷まで進出します。
しかし、ここで源氏のヒーロー・源義経が登場します。このとき、義経、25歳。義経は常識を超えた捨て身の奇襲をかけて、平家を破ります。
この戦で、平知盛は子の知章(ともあきら)を亡くします。わずか16歳の知章は父親の身代わりとなって討ち死にします。このことが知盛の心に重くのしかかります。
一の谷で敗れた平家は宗盛が屋島に、知盛は関門海峡の彦島に陣を張ります。屋島~彦島を防衛圏としたのです。
知盛にとって関門海峡はフランチャイズです。潮の流れの複雑な関門海峡に海戦経験の少ない源氏軍をひき込めば、負けることはないと考えたことでしょう。
天才 源義経の非情の戦術と源平合戦の潮目
寿永4年(1185)2月19日、宗盛率いる屋島軍が再び源義経の奇襲に破れ、彦島まで敗走します。この事態に、瀬戸内海の水軍・海賊がなだれをうって平家を離反していきます。とくに平家にとって痛手だったのは、平家の知行国である周防国の船奉行である船所正利が数十艘の船を義経に献上したことです。
義経は船所正利の案内で、すでに寝返っていた河野水軍や熊野水軍を中心とした船団を組み、長門国串崎沖の満珠島・干珠島付近に集結します。
この知らせを受けた知盛は3月24日早朝、彦島を出港し、西流れの潮に逆らって田野浦まで進出します。安徳天皇や母の建礼門院も船に乗せます。それは知盛の自信の表れなのでしょうか?それとも・・・。
ここで、串崎の海賊が平家を裏切って源氏に従軍します。義経は、関門海峡の潮流の情報を得ることができたのです。
そのことを知ってか、知らずか、知盛は潮目が変わる午前8時30分頃を期して、攻撃を仕掛けます。東流れの潮は午後3時頃まで続きます。知盛はその間に、潮の勢いを借りて決着をつける考えだったと思います。
正午ごろから激しい戦闘状態になりました。『吾妻鏡』によると源氏800艘、平家500艘が激突したのです。(『平家物語』では3000対1000)
義経もまた、その時間を守り抜けば、道が開けることを知っています。義経は禁じ手に出ます。当時の船戦では武士同士が戦い、操船要員の水手や梶取を狙わないことが常識でしたが、義経はその常識を破りました。「勝たなければ意味がない。勝つためには手段を選ばない」これが義経の考えです。
平家軍は劣勢になりました。これを見た傘下の水軍が寝返ります。
そして、午後3時頃、潮目が変わります。水手・梶取を討たれた平家の船は制御できず、壇ノ浦の方向へ流されるままです。
この海戦を世に壇ノ浦の戦いといいますが、壇ノ浦まで流されたとき、すでに平家には戦闘能力は残ってなく、一方的に押されるだけでした。
天才とは時代の常識や価値観から自由であるということだと思います。その意味で清盛は天才でした。全く新しい国家観を持っていたのです。義経もまた天才です。当時の武士の常識に囚われることがありませんでした。清盛の血をひき、義経と対決した知盛はしかし、天才ではありません。時代の常識の枠内で、与えられた立場で、ベストを尽くした男です。自ら死線をさまよった体験と我が子を失った苦しみが知盛に透徹した無常観を与えたのかもしれません。
いよいよ入水に当たって、知盛は叫びます。
見るべき程の事は見つ 今は自害せん
知盛は遺体が浮かび上がらないように碇を背負って身を投げたと伝えられています。それは天才に対して知盛が最後に見せた意地なのか、それとも、死に対してもベストをつくす律義さなのかは、定かではありません。
一方、鮮やかな勝利を飾った源義経。しかし、わずか4年後、権力者となった兄・頼朝によって追い詰められ、非業の死を遂げます。天才ゆえに、生き抜く場所はなかったのです。