関門海峡の東に向かって立つ白い巨像は何だ?

現存する洋式灯台としては九州で一番古い灯台が門司区にあると聞いて、見に行きました。
部埼(へさき)灯台といいます。

九州自動車道門司インターチェンジを降りて東に向かうと、白野江(しらのえ)植物公園があり、さらに進んで白野江郵便局前を右折すると、突然、右側に海が開けてきます。この付近を青浜といいます。海岸道路を走ります。周防灘の波静かな海面に浮かぶ船舶。少し走ると、部埼灯台用の駐車場が見えてきました。
車を降りて、海を見ながら深呼吸。

と、視界の端に、白い巨像が見えました。道路脇の岩場にある像はなぜか海に向かって立っており、後ろ姿です。手にトーチのようなものを持っています。まるで、自由の女神のようです。

「な、何だ、あの白い像は」

気になって海岸に降りてみると、岩場に立つ像は10mはあろうかという大きさです。岩場の黒や海の青に染まらない白が異彩を放っています。波打ち際までいくと、かろうじて横顔が見えました。男性の顔です。自由のおっさんか?

変な気分のまま、部埼灯台をめざします。駐車場から石段を上って森に入って行きます。すぐに、白亜の建物が見えてきました。これが部埼灯台です。白い御影石で造られており、半円形の基部の上に円形の灯塔が乗っています。1872(明治5)年に造られたままの姿だそうです。140年以上経っているとは思えない美しさを放っています。
この灯台、どんな特徴があるのでしょうか。灯台研究家の不動まゆうさんの著書『灯台はそそる』によると、「不動と閃光が組み合わさった珍しいレンズによって『連成不動単閃白光』という光り方をします」ということです。う~む、わからん。つまり、「ずーっと光っている中で、さらに15秒に1回ピカッと光る」珍しい灯台なのだそうです。
ちなみに、灯台のすぐ横に潮流信号所の電光掲示板が建っています。これは潮流の強い海峡において潮流の方向や速度の変化を船舶に知らせる掲示板で、関門海峡には火の山下や台場鼻(彦島)にもあります。

さて、灯台のすぐ下に四本の柱が立っているオブジェのようなものが見えました。近づいてみると「僧清虚火焚場跡」と書かれています。
説明版には、清虚(せいきょ)という僧が、海難防止のため、この地で13年間にわたり火を焚き続けていたことが書かれています。清虚の死後も、部埼灯台が建設されるまで、村人の手で受け継がれたとも書かれています。

つながりましたね。白い巨像は清虚その人だったのです。海に向かって立っている意味もわかりました。
僧清虚とはどんな人だったのでしょうか。

61歳から13年間、人生最後まで関門海峡に毎晩火を灯し続けた
清虚という僧の物語

1836(天保7)年、豊後国国東(くにさき)郡出身の僧・清虚は船に乗って豊前海を進んでいました。高野山に向かう目的で、まずは下関をめざしていました。

青浜というところに来ると、乗客が一斉に念仏を唱え始めました。話を聞くと、この付近は暗礁が多く、航海の難所で、座礁してしまう船が後を絶たないということです。乗客は無事に通り抜けることを祈るしかなかったのでした。
難所を克服するには目印となる灯りが必要と判断した清虚は、この地に留まって火を焚き続けることを決意しました。

清虚には若いころ、過失とはいえ、友人を殺(あや)めてしまった過去がありました。友の菩提(ぼだい)を弔うため、清虚は僧として修行に明け暮れてきました。高野山に向かうのも修行のためです。しかし、この地で多くの命を救うことこそ本当の修行ではないかと考えたのかもしれません。
清虚は日中に托鉢をし、一食分の米を残して、すべて薪代に充て、一晩中、火を焚き続けました。

当初、村人たちは、そんな清虚を変人扱いして冷ややかに見ていました。
「そのうち、やめるやろ」
誰もがそう思っていたでしょう。

しかし、清虚は雨の日も、風の日も一日も休まずに火を焚き続けました。一日一食の生活を守り、一日も欠かすことなく、灯りを海に放ったのでした。
次第に、村人たちの心が変わっていきました。当初は乞食坊主と呼んでいたのが、一食(いちじき)坊主と尊敬を込めて呼ぶようになりました。徐々に火焚きを手伝う人もでてきました。

火焚きは13年続き、1850(嘉永3)年、清虚は74歳で亡くなりました。しかし、清虚の死後も、火が消えることはありませんでした。村人たちによって事業が引き継がれたのです。最初は利三郎という村人が引き継ぎ、次第に輪番制が確立して村を挙げて取り組むようになりました。船を動かす下関の商人からの援助も届くようになりました。

日本の灯台の父、リチャード・ブラントンは、
僧清虚の話を聴いてどう感じただろうか

清虚や村人の思いは部埼灯台に引き継がれました。

話は清虚の死後8年を経た1858(安政5)年に遡ります。この年、井伊直弼が日米修好通商条約を結び、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の港が1863(文久3)年に開港することが決まりました。しかし、兵庫港は朝廷が強く反対して5年延期されました。

5年後の1868年(慶応3)1月1日の開港に先立ち、イギリスから部埼、六連島(むつれじま 下関市)、江埼(淡路市)、和田岬(神戸市)、友ヶ島(和歌山市)の5か所に灯台を設置することを要求されます。江埼と和田岬は明石海峡、友ヶ島は紀淡海峡にあり、兵庫港への進入口です。これに瀬戸内海に入る関門海峡の2か所を合わせて、兵庫港へ向かう航路の安全性を確保したかったのです。

1868年8月、ひとりの男が横浜港に降り立ちました。リチャード・ブラントン。スコットランド生まれの英国人です。できたばかりの明治政府に招かれて、灯台の設計のためにやってきたのです。本職は鉄道技師ですが、日本行を志願して採用されたといいます。27歳です。若いですね。伊藤博文と同じ年です。父は海洋小説家であり、異国の海への憧れがあったのかもしれませんね。

明治政府は近代のため、多くの「お雇い外国人」を招きますが、ブラントンこそ、その第1号なのです。
ブラントンは11月から船をチャーターして全国の灯台予定地を視察します。部埼にいつ来たのかはわかりませんが、視察を終えて長崎に着いたのが12月24日ですから、その直前だと推測されます。
部埼を訪れたブラントンが青浜の村人から清虚の話を聞いたかどうかはわかりません。しかし、部埼灯台の設置場所が清虚の火焚場の近くになったことは偶然だとは思えません。

さて、ブラントンは日本にいた8年間で、26の灯台を設計しています。それは木造、煉瓦造、鉄造、石造と多彩にわたっています。何故でしょうか。ブラントンの手記に、視察では「利用できる建築資材や労働力」を調べたとあります。つまり、地域の特性に応じて柔軟に設計をしていったのです。
その中でも、部埼灯台はブラントン型といわれるほど彼のオリジナリティあふれる灯台です。ちなみに六連島灯台もブラントン型で、双子の灯台といわれるほどよく似ています。部埼灯台と同じ1872年に完成しています。

ブラントンは仕事一途の人間で、仕事に対する強い自負心と責任感を持っていたといわれています。他のお雇い外国人のように日本文化に興味を持って観光にいそしむことはなかったようです。そこには、清虚と通じる、民衆の安全を第一義に考える愚直さを感じてしまいます。二人の魂はどこかで重なりあったのではないでしょうか。

小倉藩にもいた「灯台の父」…岩松助左衛門と白州灯台

部埼灯台の話をしてきましたが、関門海峡には他にどんな灯台があるのでしょうか。
忘れてはいけないのが白州(しらす)灯台です。響灘に浮かぶ藍島(あいのしま 北九州市小倉北区)沖の小島(岩礁)に立っています。部埼灯台が関門海峡の東の玄関口なら、白州灯台は西の玄関口です。部埼灯台と同様に日本の灯台50選に選ばれています。
この白州灯台にも建設に伴う感動的な物語が伝わっています。


小倉城の大手門跡を通って左に行く(右に行くと天守閣)と、木立の奥に二層の瓦屋根の木造の建物がひっそりと建っています。お城にあるから当然、櫓(やぐら)かなと思われますが、実はこれ、灯台なのです。当初の白州灯台を復元したものです。部埼灯台は当初から西洋式の石造りの灯台でしたが、白州灯台は和風の木造だったのですね。

この白州灯台の建設に取り組んだのが岩松助左衛門です。
岩松助左衛門は小倉藩領長浜浦の庄屋でした。57歳のとき、藩から「海上御用掛難破船支配役」に任命されました。つまり、難破船を救助する役です。藍島付近には暗礁が多く、死者が出る座礁事故が続いていました。助左衛門は救助するだけでなく、事故防止が必要だと痛感しました。常用灯の灯籠台を建てることを発案し、1862(文久2)年、小倉藩に築立願を提出しました。藩はすぐに許可を出しました。ただし、建設にかかる費用はすべて助左衛門が出すという条件です。当時は、幕末の混乱期、小倉藩も灯籠台どころではなかったのでしょう。助左衛門は全財産を投じる決意をしました。足りない分は募金や借金でまかないました。

その後、幕長戦争により企救郡が長州藩に占領されるなどの混乱があり、1870(明治3)年になって、ようやく基礎工事までこぎつけました。
時代は明治となっており、事業は明治政府が引き継ぐことになりました。1872月3月、明治政府は白州灯台の建設工事を始めました。それを見届けるかのように、助左衛門は翌4月、息を引き取りました。69歳でした。

実はこの白州灯台もブラントンの設計といわれています。それは部埼灯台とは全く違った純和風の木造灯台です。すでに基礎工事ができていたために、助左衛門の計画を忖度した結果かもしれません。
白州灯台は1873(明治6)年に完成。1900(明治33)に石造りに改築されました。

受け継いでいきたい関門海峡・灯台の物語

僧清虚と岩松助左衛門。航海安全のために尽力した二人に共通するのは、何といっても果てしない人間愛です。無私の精神です。そして、思い立ったのが共に60歳前後であったいうことも共通しています。当時では晩年です。世間と距離を置いて隠居して当然の年齢です。心を突き動かされて新たな行動を開始するのに年齢は関係ないということを、時代を超えて教えてくれますね。

二人の崇高な魂は、ブラントンを通して灯台という形で引き継がれました。
さらに、二人の偉業を後世に伝えようと、戦後になって地元の人たちが動きました。
白州灯台は1963(昭和38)年に、北九州市誕生を記念して、「長浜郷土会」が中心となって小倉城内に復元されました。
1973(昭和48)年、地元有志によって清虚の像が建立されました。また、2008(平成20)年には、清虚が火を焚き始めてから170年になるのを記念して、「門司僧清虚顕彰会」により火焚場が復元されました。

最後に、もうひとつ、灯台を紹介しましょう。角島(つのしま)灯台です。関門海峡からは少し離れていますが、角島も下関市です。この灯台もまた、日本の灯台50選に入っています。角島灯台はブラントンが最後に設計した灯台なのです。
全国で忙しく灯台を造り続けたブラントンですが、1875(明治8)年に、1年後に雇用契約を解除するという通知を政府から受けました。明治政府は徐々に「お雇い外国人」を解雇し、日本人の手で近代化を進めようと意図し始めたのでした。
ブラントンは最後に角島灯台の設計に取り掛かります。

角島灯台は天に向かってすっくと立つ灯塔のフォルムが美しく、気品があって芸術的でさえあります。灯台研究家・不動まゆうさんをして「日本で最も美しい」といわしめる灯台です。ブラントンが、最後に、小説家の血をひく一人の人間として、芸術的感性を発揮して、万感の思いを込めて設計したというのは、考えすぎでしょうか?

部埼灯台、白州灯台、角島灯台が物語でつながりました。灯台にまつわる物語が長く伝えられていくことを願っています。

※関門海峡にはほかに、大藻路(おおもじ)岩灯台(藍島)、門司埼灯台(門司区・和布刈)、妙見崎灯台(若松区・遠見ヶ鼻)などがあります。また、廃灯にはなっていますが、金ノ弦(かねのつる)灯台が下関市彦島に立っています。

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