関門時間旅行

男が惚れる男。明治維新の栄光のセットアッパー 高杉晋作 

男が惚れる男。明治維新の栄光のセットアッパー 高杉晋作 

関門の歴史ザムライこと小野剛史です。いよいよスタートする関門人物伝「イキザマミュージアム」。海峡都市に生きた魅力的な人物のイキザマをご紹介していきます。

幕末の関門海峡は波乱に満ちています。主役はいつも長州藩。海峡を舞台に暴れまわりますが、とにかく、やることが無茶です。ですから、何度も絶体絶命のピンチに陥ります。
そのたびに、一人の男がさっそうと現れます。
野球でいえば、その登場シーンは次のようなものでしょうか。8回表(別に裏でもいいのですが・・・)、ノーアウト満塁。その男は、ベンチからでも、ブルペンからでもなく、スタンドから舞い降ります。意表をつく配球で三者三振。悠々とマウンドを降りますが、ベンチには入らず、どこかへ去っていきます。まだ試合は終わっていないのに・・・。

その男の名は、高杉晋作(たかすぎ・しんさく)。

身分の垣根を超え、入隊基準を「志」という画期的な軍隊「奇兵隊」結成

「5月10日を期して攘夷(じょうい)を決行します」
文久3年(1863)4月20日、幕府将軍・徳川家茂(とくがわ・いえもち)は朝廷に対して、そんな約束をしてしまいました。

久坂玄瑞

当時は「攘夷思想」が盛んで、その中心にいたのが長州藩の久坂玄瑞(くさか・げんずい)です。久坂は吉田松陰(よしだ・しょういん)門下で、高杉晋作と共に竜虎と称された逸材です。久坂らは攘夷派公卿の三条実美(さんじょう・さねとみ)らと結びついて朝廷を動かすまでになっていたのです。

「攘夷」とはつまり、外国船を攻撃することです。家茂はもちろん、本気ではありません。朝廷の厳しい要求に抗しきれず、苦し紛れに答えたのでした。通達を受けた各藩も様子見です。

しかし、長州藩だけは本気でした。毛利能登(もうり・のと)を総大将に藩兵650人が下関に布陣しました。正規兵とは別に、光明寺(こうみょうじ)に、約50人の下級武士や浪人の集団(光明寺党と呼ばれています)がいました。リーダーは久坂玄瑞。
5月10日、アメリカ商船・ペンブローグ号が小倉藩領田野浦沖に碇泊しました。しかし、総大将・毛利能登はさすがにビビったのか、攻撃命令を出しません。そこで、久坂玄瑞率いる光明寺党は勝手に藩の軍艦に乗り込み、独断でペンブローグ号を攻撃しました。結局、毛利能登は最後まで攻撃命令を出しませんでしたので、この日の「攘夷」は50人程度の過激派のみが独断で行ったのでした。
その後、長州藩は5月23日には、フランス軍艦・キャンシャン号にも砲弾を浴びせました。このときは正規軍も参加しています。

さて、高杉晋作です。彼はこの攘夷騒ぎの中にはいませんでした。

胴着姿の高杉晋作

晋作は前年の文久2年(1862)、上海視察をする機会を得て、列強に植民地化された清国の悲惨な姿を目の当たりにしていました。ですから、外国から国を守るためには、国を富ませ、軍備を増強する必要性を感じており、久坂らが主張する観念的な攘夷思想とは一線を画していました。攘夷の熱狂に背を向けた高杉晋作は頭を剃って東行(とうぎょう)と名乗り、萩で隠遁していたのです。

 

無謀な攘夷に対するしっぺ返しはすぐにやって来ました。アメリカは6月1日に軍艦を関門海峡に派遣し、報復攻撃を行いました。6月5日にはフランス軍艦が来襲、前田村に上陸し砲台を破壊しました。甲冑に身を固めた長州藩正規軍は砲弾の中を逃げ回るだけでした。
周布政之助(すふ・まさのすけ)や桂小五郎(かつら・こごろう)ら藩幹部は、藩の再起を高杉晋作に託しました。
萩の自宅にいた晋作は藩主から命令を受けると下関の商人・白石正一郎(しらいし・しょういちろう)の屋敷に向かいました。白石家の屋号は「小倉屋」。もともと対岸の小倉の住人であったといわれています。支藩の清末藩の御用商人で、尊王攘夷派に肩入れしていました。

晋作はここで奇兵隊を結成しました。奇兵隊は武士が5割、農民が4割、その他が1割の混成部隊です。軍事は武士が行うという常識をくつがえし、身分の垣根を取り払って、入隊基準を「志」に求めた画期的な軍隊です。晋作は久坂玄瑞らの無謀な攘夷の挫折を見越しており、この敗北を奇貨として、均質な軍隊を創ろうとしたのです。晋作は外敵と戦うためには伝統的な武士のスタイルでは対応できないことを看破しており、武士の複雑な身分関係が指揮命令系統を混乱させることを知っていたのです。身分を超えた軍隊を創った背景には、師・吉田松陰が唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」の影響もあったと思われます。

奇兵隊所属の兵の写真 高杉晋作のカッコイイこと・・・

さて、結成された奇兵隊の最初の仕事は、海峡を渡って小倉藩領の田野浦を占拠することでした。長州藩から見れば、攘夷に際して小倉藩が傍観していたことが許せませんでした。そこで、田野浦に上陸、砲台を占拠するという挙の出たのでした。
長州藩と小倉藩はもともと水と油の関係でした。関ヶ原の戦いに敗れ120万石から長門・周防36万石に減らされた毛利氏を監視するために送り込まれたのが小笠原氏の小倉藩15万石。藩祖・忠真(ただざね)の母は徳川家康の孫です。

譜代藩の小倉藩からすれば、幕府の正式な命令もないのに外国船を攻撃するなど、全く想定外のことです。しかし、長州藩と戦争をするわけにもいかず、奇兵隊の暴挙を静観するしかありませんでした。

ところで、奇兵隊の生みの親・高杉晋作ですが、意外にも奇兵隊総督の座にいたのはわずか3ヶ月でした。奇兵隊と上士のもめ事に巻き込まれ、責任を取る形で、さっさと奇兵隊を辞めてしまったのでした。

米英仏蘭の連合艦隊が下関を占拠。長州藩最大のピンチに再びあの男が。

長州藩を中心に動いていた政局が8月18日に一変します。長州藩の強引なやり方に危機感を覚えた薩摩・会津藩がクーデターを起こし、長州藩を京から追い落としたのです。日付から「八月十八日の政変」と呼ばれています。三条実美ら長州藩寄りの七卿は都を落ちて長州藩に亡命しました。

古城山と田野浦

関門海峡の状況も一変し、奇兵隊らは9月4日までに田野浦から引き上げました。

 

そんな中、高杉晋作は10月1日付で奥番頭役に付き、新たに160石を得ました。奥番頭役は藩主の側近中の側近で、まさに異例の出世です。
晋作は藩主から来島又兵衛(きじま・またべえ)への説得を命じられます。来島らは挽回のため兵を率いて京に攻め上ろうとしていたのです。晋作は説得に出向いたものの、来島から「卑怯者」だの「160石をもらって命が惜しくなったか」などと罵られます。頭に血がのぼった晋作は藩に無断で京に上ってしまいました。
元治元年(1864)7月19日、来島又兵衛を中心とした長州軍は御所を攻めました。当初は反対していた久坂玄瑞も加わります。そして、一敗地にまみれました。来島は戦死し、久坂は切腹して果てました。世にいう禁門の変(蛤御門の変)です。

弱り目にたたり目というか、長州藩は翌月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四か国の連合艦隊に攻められます。関門海峡に集結した17隻の軍艦が火を噴きました。奇兵隊を中心に前田・壇ノ浦砲台から反撃しましたが、一方的に押され、上陸を許し、砲台を占拠され、破壊されてしまいます。
長州藩最大のピンチです。

西洋連合軍に占拠された下関
晋作(中央)と講和交渉で通訳を務めた伊藤博文(右)

ここで再び高杉晋作、登板です。晋作は無断で藩を出奔していたため、帰国後、獄につながれていました。藩幹部は晋作を出牢させて、降伏交渉を一任します。困ったときの晋作頼みです。晋作は宍戸刑馬(ししど・ぎょうま)と名乗って藩の重役になりすまし、交渉に臨みました。晋作は彦島の租借(そしゃく)要求を断固としてはねのけ、賠償金も幕府に押し付けることに成功しました。

しかし、外国艦の下関寄港は認めざるを得ませんでした。これにより、長州藩は攘夷から開国へと大きく舵を切ったのです。
尊王を標榜(ひょうぼう)する長州藩士らが御所に発砲したことで、幕府は長州藩を征討する格好の口実を得、長州藩征討を行うことにしました。

長州藩では、「攘夷派」に代わり、椋梨藤太(むくなし・とうた)をはじめとした幕府に恭順を示す「保守派」が実権を握りました。「攘夷派」は次々と弾圧され、高杉晋作も身の危険を感じて長州藩を脱出します。身を寄せたのは筑前の勤王歌人・野村望東尼(のむら・ぼうとうに)が住む平尾山荘(現福岡市中央区平尾)でした。

「武人だと。ちっ、土百姓が。この晋作は毛利藩三百年譜代の臣じゃ」

「攘夷派」は追い詰められ、奇兵隊にも解散命令が出ました。
高杉晋作は乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに出ます。12月になって晋作は筑前から戻り、奇兵隊陣営に出向いて保守派打倒の決起を訴えました。しかし、総督の赤祢武人(あかね・たけと)が藩庁と折衝中であることを理由に、参謀の山県狂介(やまがた・きょうすけ のちの有朋=ありとも)らが拒否すると、晋作は言い放ちます。

「武人だと。ちっ、土百姓が。この晋作は不肖ながら毛利藩三百年譜代の臣じゃ」

高杉晋作。風雲児、革命児の名をほしいままにする陽性の天才も、払拭しようのない複雑な闇を抱えていたのです。

高杉晋作決起の像(功山寺)

晋作の決起要請に呼応したのは伊藤俊輔(いとう・しゅんすけ のちの博文=ひろぶみ)ら約80人に過ぎませんでした。12月15日未明、晋作は功山寺(こうざんじ)を訪れ、三条実美らに対して「これよりは長州男児の腕前をお目にかけます」と叫んだ後、電光石火、新地の藩会所を急襲、さらに三田尻の海軍局に向かい、軍艦を手に入れました。

高杉晋作の快挙に、山県狂介率いる奇兵隊をはじめ、諸隊が呼応し、藩正規軍を大田・絵堂で破り、「攘夷派」が藩政権を奪回しました。

しかし、高杉晋作はここでもマウンドを降ります。

功績からいって藩政府の中枢にすわるべき男は、その政権自体に加わろうとしません。イギリスに留学したいと、長崎に向かうのです。藩は同行を希望した伊藤俊輔との2人分の旅費3000両を準備しました。元治2年(1864)3月下旬、二人は下関から長崎に船で向かいました。しかし、長崎でグラバーに会った晋作らは「まず国を独立させ、下関港を開くべきだ」だと忠告されました。翌月、下関に戻った晋作は伊藤俊輔、井上聞多(いのうえ・ぶんた のちの馨=かおる)とともに外国応接掛に任じられ、開港の準備を始めました。

ところが、この下関、長州本藩(萩藩)の領地ではなかったのです。支藩の長府藩と清末藩のものでした。下関開港の噂が流れると、晋作らは長府藩の報国隊に命を狙われる羽目になったのです。晋作は町人姿に変装し、四国の侠客・日柳燕石(くさなぎ・えんせき)のもとに身を寄せました。

長州藩「保守派」の恭順でいったんは長州征討を回避した幕府は、長州藩の政権交代に怒り、再び長州征討を画策しました。毛利藩主父子を隠居させる新たな処分案を引っ提げて老中・小笠原長行(おがさわら・ながみち)が広島に下向し、5月29日までに処分請書を提出しない場合は6月5日を期して攻撃すると最後通牒を行いました。ちなみに、小笠原長行は唐津藩で、小倉藩小笠原家の親戚です。

高杉晋作は、桂小五郎が報国隊の説得に成功したため、下関に戻ることができました。晋作は戦争準備を始めます。
幕府は大島口、芸州口、石州口、小倉口の4か所から長州藩を攻める計画を立てていました。6月7日、幕府軍艦が周防大島対岸の上関を砲撃して第二次長州征討(幕長戦争)の火蓋が切られました。高杉晋作はこの報に接すると、藩唯一の蒸気軍艦・丙寅丸(94トン)に乗って、久賀沖に碇泊している幕府艦隊を夜陰に紛れて奇襲しました。撃つだけ撃って退却しました。まさに、動けば雷電の如くです。

幕府vs長州藩の最大のヤマ場「小倉戦争」、晋作・龍馬の揃い踏み

大島口から戻った高杉晋作は下関に立ちます。いよいよ、最大のヤマ場を迎えようとしていました。関門海峡を挟んで布陣する幕府軍との決戦です。いわゆる小倉戦争です。

坂本龍馬

高杉晋作の懸念は蒸気軍艦の差でした。幕府側には富士山丸(1000トン)、回天丸(710トン)、翔鶴丸(350トン)、順動丸(450トン)がありますが、長州藩には丙寅丸(94トン)しかありません。
そんな晋作に朗報です。坂本龍馬(さかもと・りょうま)が桜島丸(300トン)に乗って下関に来ていたのです。桜島丸は長州藩が薩摩藩名義で購入した蒸気軍艦で、斡旋した坂本龍馬率いる亀山社中が届けに来たのでした。
坂本龍馬は高杉晋作の要請を受け、桜島丸を指揮して戦場に出ることになりました。高杉晋作、坂本龍馬の揃い踏みです。

6月17日未明。
高杉晋作が乗り込んだ丙寅丸は帆船の癸亥丸、丙辰丸を曳いて下関を出航、左へ進んで田野浦沖に出ました。一方、坂本龍馬は桜島丸に乗り、帆船・庚申丸を曳いて右に進み、門司沖に回り込みました。
午前6時、艦砲射撃と壇ノ浦砲台の砲撃が始まりました。次に山県狂介率いる奇兵隊が田野浦へ上陸しました。

小倉藩では田野浦に陣を張る島村志津摩(しまむら・しづま)が下関への奇襲を画策していましたが、小倉口総督となった小笠原長行の許可が出ず、待機していたところでした。(長州藩の高杉晋作が栄光のセットアッパーなら、小倉藩の島村志津摩は弱小球団のリードオフマンといったところでしょうか。いつか、この関門人物伝に登場すると思いますので、お楽しみに!)
小倉兵は初めての実戦です。戦国時代と変わらない重い鎧、兜をまとった藩士は、軽装で気勢を上げて走り回る奇兵隊士に翻弄され、恐怖から身を寄せ合うため、かえって的を大きくしてしまっていたのでした。
参戦した坂本龍馬は後に次のように書いています。「小倉ノ兵、戦ヲ習ハズ、諸人楯ヲ取リテ、アチコチニ集リ、海上ヨリ見ルニ、至テ見苦シ」

この戦闘、小倉藩にとっては踏んだり蹴ったりでした。幕府・各藩オールスターズのはずが、小倉藩以外は傍観するだけで、参戦しないのです。
長州軍の圧勝でした。長州兵は門司まで侵攻しましたが、晋作は撤退を指示しました。幕府軍艦が到着して海峡を封鎖すれば孤立してしまう恐れがあったのです。

奇襲第2弾は7月3日の早朝です。到着した富士山丸に奇襲をかけた後、門司から上陸し、大里(だいり)まで攻めました。幕府軍艦は大里沖に出てきましたが、謎の後退を始めました。この日も圧勝しましたが、晋作はその日のうちに兵を撤退させました。
幕府側が初めて反撃したのは7月27日の赤坂峠での戦いでした。熊本藩軍が戦闘に加わり、長州軍を押し返しました。長州藩は初めて犠牲者を出して退却を余儀なくされました。

しかし、熊本軍はなぜか直後に戦線を離脱しました。指揮をとろうとしない総大将・小笠原長行に対する不信感があったようです。すると、なんとあろうことか、その小笠原長行自身が富士山丸に乗って「敵前逃亡」をしてしまったのです。監督が選手に無断で試合を放棄したのです。

面白きこともなき世を面白く

野村望東尼

時代が大きく動こうとしていました。
しかし、高杉晋作にはもはや余力がありませんでした。持病の結核が激しくなり、下関での療養を余儀なくされました。
晋作は病床で「面白きこともなき世を面白く」と詠んだところで言葉に詰まりました。傍らの野村望東尼が「すみなすものはこころなりけり」と下の句を添えたといわれています。晋作、本当は何と言いたかったのでしょうか。

関門海峡を忙しく駆け回った稀代の英雄は、翌年の4月14日、息を引き取りました。数え年29歳の生涯でした。

さて、2017年8月24日19時からのインターネット番組、【関門時間旅行】では、歴史ザムライ小野剛史も登場して、この高杉晋作を語りますよ〜! 公開生中継ですので、お近くの方は観に来ませんか? ただ今無料で観覧希望のお申込みを受付中です! お友達を誘ってぜひ。

About The Author

関門プロデュース研究隊関門の歴史ザムライ小野 剛史
郷土史家 行橋市在住
「小倉藩の逆襲」ブログ連載中http://759700.cocolog-nifty.com/blog/ 
著書に『豊前国苅田歴史物語』(花乱社)
   『峠を出でて奇兵隊を撃て 幕末小倉藩物語』(幻冬舎)

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