関門時間旅行プロジェクト主宰、トミタプロデュースの富田剛史です。
今回は宮本武蔵「五輪書」を読むヒント。「五輪書」全体に出てくる「直道」「直心」についてです。

2024年10月28日の早朝6時、兵法二天一流第十二代加治屋宗家のお誘いで、「五輪書」Zoom輪読会にオブザーバー参加させていただきました。これは、世界各国のお弟子さんと英語の「The book of the five rings」を読む勉強会。

そこで面白い気付きがいくつかありました。まず今回は「心を広く直にして」などに出てくる「直道」「直心」について、私が思ったことを書き残しておきます。

地の巻・道をおこなう法の第一とは

「五輪書」は、全体に端的な表現で、武術家はもちろんのこと、経営者、スポーツ選手やコーチ・監督などあらゆる戦う人に「座右の銘」を提供してくれていますが、中でもより端的に“箇条書き”にしている有名箇所があります。

「地の巻」の最後の方の『道をおこなう法』として記された九ヶ条。岩波文庫版「五輪書」から、引用します。

  • 第一に、よこしまになき事をおもふ所
  • 第二に、道の鍛錬する所
  • 第三に、諸芸にさはる所
  • 第四に、諸職の道を知る事
  • 第五に、物毎の損得をわきまゆる事
  • 第六に、諸事目利を仕覚ゆる事
  • 第七に、目に見えぬ所をさとってしる事
  • 第八に、わづかなる事にも気を付くる事
  • 第九に、役にたたぬことをせざる事

箇条書きという点で「独行道」に通じる単純明快さがあり、多くの人が引用する有名な箇所。今朝の国際輪読会は、ちょうどこのあたりを皆で読んでいたわけです。

輪読会の参加者からの質問で、この第一条の「よこしまになき事をおもふ所」の意味を問うものがありました。それはどういう意味なのかと。加治屋宗家は、「論語」の一節にそういう言葉があり、それを意識したのではないかとお答えになりました。なるほど、孔子の言葉か・・・と私も感心しました。

思い邪無し
兵法三十五箇条と五輪書との最大の違い

論語では、「思い邪(よこしま)無し」と言います。

それは、僕が最初に入った会社のトップだった経営の神様、故・稲盛和夫さんが大事にされた言葉でもありました。懐かしい…。

さて、話を武蔵に戻しましょう。

「直道を行け」「直ぐなる心で」といった表現は、五輪書では何度も出てきます。
さらに、武蔵最後の著作「独行道」でも最初の一項は

一、世々の道をそむく事なし

これも似たようなことを書いていると思えます。

実は、1645年の「五輪書」の少し前1641年に、武蔵は五輪書の草稿的な伝書「兵法三十五箇条」を書いています。熊本へ行った翌年に藩主・細川忠利の求めに応じて書き残したもので、兵法指南の記述は五輪書に非常によく似ています。

しかし、大きな違いもあります。それは「思い邪なし」のメッセージの有無。

「五輪書」は、「兵法三十五箇条」に書いた兵法の具体論をもっと詳細に書き記すと同時に、「思い邪なし」の主張が随所に強調されて、最終的にあの哲学的で解釈が人によって違う「空の巻」で終わるんですね。

その違いは、誰に向けて書かれたか、によるのではないでしょうか。

「五輪書」は誰に向けて書かれているのか?

「兵法三十五箇条」が兵法の達人・細川忠利公に向けられたのに対し、「五輪書」は二天一流の弟子へ向けた伝書です。しかし、技を極めた高弟へ与えるにしてはあまりに初歩的なことから記されています。

一応は、一番弟子である寺尾孫之允に向けた形になっていますが、「刀の持ち方」や「立ち方」「表情の作り方」などから書かれた五輪書の内容は、まるで「はじめての剣術指南」といった感じで、武蔵の目線はまだ会わぬ誰かに向けられているように思えるのです。

どこか遠くの、または遥か未来の誰か。
宮本武蔵の想いを受け止めて朝鍛夕錬し、二天一流を極めてくれるどこかの誰か。

それはもしかすると自分かも…と誰もが感じられる「五輪書」の普遍性です。

「五輪書」そして武蔵自身を永遠の存在にしている理由だと思います。

ちなみに、戦国時代を生きた武蔵がいう「邪(よこしま)なきこと」は、現代人がなんとなく思う「スポーツマンシップ」や「正々堂々」とはだいぶ違います。

少年の頃から文字通りの“真剣勝負”の実戦で身につけた現場の戦術論が五輪書。わざと定刻を遅れて相手を苛立たせたり、戦いの前に相手が嫌がるようなことを言ったり、意表をついたりなど、相手に勝つための工夫は何でもOK。それは卑怯でもないし、「邪」とは武蔵は考えてもいないでしょう。

武蔵はいつ頃、どうして、「邪な思い」を捨てたのか

では、何が「邪(よこしま)」か?

「独行道」や「五輪書」の内容を総合すると、おそらく武蔵にとって「邪な思い」とは、自らの「財産・所領」を増やすために戦うことや、「恨み・妬み・恋慕の情・自らの楽しみ」などで戦うことを意味していると思われます。

私利私欲ではなく、「主君の為、我が身の為、名をあげ身を立てん」ために、敵に勝つ専門家として鍛錬を続けることが兵法の道である、と五輪書・地の巻に書いています。

しかし、若い頃の武蔵には承認欲求からの出世欲が、かなりあったのではないでしょうか。「戦国時代」「下剋上」とは、言わば「邪な思い」のぶつかり合いです。その時代に必死に夢を追った武者に私利私欲が無いなんて考えられません。

それが、いつ変化したのか?
答えは、小笠原忠真と過ごした明石~小倉の時代です。これまで「謎の…」と言われることが多かった、巌流島の後から熊本に行く前まで。

大きな時代の変化の中で、歳を取り、いろいろ経験し、いろいろな人と交わりながら、武蔵自身の考え方が変わっていった。

そのあたりが、「五輪書」冒頭の方にある、――三十路を超えてからもっと深き道理を得ようと朝鍛夕錬した結果ようやく五十のころ兵法の道を得られた――という表現に現れているのでしょう。

そして、強さを極めた先に、いろいろな分野の一流人と交わって気がついた「思い邪なし」ファーストの思想は、何も宮本武蔵が「道徳的になろうとした」のではなく、「そう在ることが究極の強さを得るのに必要だった」のではないかというのが私の見方です。

大谷翔平へとつながる宮本武蔵の気づき

ちなみに「論語」は、古事記の時代に日本にもたらされていますが、戦国時代までは武士に広く知られていたわけではありません。江戸時代に入り、徳川家康が学ぶことを奨励して広まったようです。そこには、平和な時代の武士を統制する道徳としようという想いが透けて見えます。武者の時代から文官重視の時代へ。

ところが当時の有名剣豪の一人だった宮本武蔵は、武者が「強さを極める方法」として、邪なき思いで鍛錬することを第一に掲げた。それはその後の「武士道」の在り方に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

例えて言えば、豪快さ故に暴飲暴食していた昔のスポーツ選手が「健康に悪い」と言われても取り合わなくても、「より記録を伸ばすため」であれば率先して健康で真面目な生活を取り入れる・・・みたいなことです。

宮本武蔵にとっては、「道徳」でさえも兵法の理に照らして必要だと身につけた考え方だったのかと思うと愉快ですよね。

そして最後はどっちが先でも良くなって、皆がそれを一心に求めていけば世の中が自ずと良くなることに満足した。

それが、空の巻の最後の「空を道とし、道を空と見る所なり…」でしょうか。

そう思うと、大谷翔平の礼儀正しさや邪な心なき態度も、彼がそもそもいい人だから…というより最高の選手となるために必要だと分かっていて身につけたのかもしれません。現代の「二刀流」として、武蔵先生もお喜びでしょう。

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