関門海峡の真ん中に浮かぶ巌流島のあずま屋から、関門橋方面を望む

これまでこの連載では、世界の海峡都市をめぐる旅をしてきました。どこの海峡でも、相反するふたつの民族や宗教、価値観が対峙し、衝突と闘争の歴史が紡がれていました。しかし、時代が下るにしたがって、船の性能や収容能力が高まったり、建築技術の発達によって橋やトンネルで両岸がつながったりして、日常的にあちらとこちらを旅する人々が現れます。血のつながりによる混ざり合いも、少しずつ深まっていきます。

かくいう私も、父方は関門海峡の西岸、母方はその東岸をルーツとしています。そんな両岸を日々、行き来する旅人たちが、ぶつかり合っていたふたつの存在の、調和と統合のプロセスを少しずつ深めていくのです。

この連載も、今回でひとまず区切り。これまでの世界中をめぐる歩みも駆け足で振り返りつつ、100年後にも語り継がれるであろう私たちの海峡都市、関門の魅力や特色を探ってみようと思います。

世界の海峡都市 #6 関門

海峡都市。
そこでは、兄弟のような二つの都市の真ん中に、世界につながる海が流れています。

海峡をへだてて、異なる文化、異なる価値観、異なる存在が向かい合う。

微妙に違うあの町とこの町が、船で、橋で、トンネルで結ばれ、
日常の内側に、「旅」が包み込まれていく。

あちらとこちらの人々が、複雑な歴史と感情を引きずりつつも少しずつ交わり、
そこから新たな文化が創造されていく。

海をはさんだ異文化との接点が日常にとけ込む独特さが、旅人を魅了してやまない、
「世界の海峡都市」の数々をご紹介するこのシリーズ

今回取り上げるのは、このインターネットメディアが一貫して素材としてきた、
日本が誇る世界級の海峡都市、関門です。


【国家名】日本

【海峡名】関門海峡

【都市名】海峡東岸:下関|源平合戦以来、日本史の表舞台に立ち続けた伝統都市
海峡西岸:門司(もじ。北九州市門司区)|明治時代後半から、貿易港として急成長した新興都市

【両岸最短距離】700m

【海峡都市エリア人口】およそ120万人

【宗 教】主に神道、仏教など

世界の海峡都市 Play Back (1)
イスタンブール、香港、シンガポール…

関門のお話に入る前に、総集編として、ざっとこれまでのこの連載の旅路を振り返ってみましょう。どこの海峡にも、関門との共通点がそれぞれにありました。

第1回でとりあげたのは、トルコ最大の都市であり、欧州とアジアの接点、イスタンブール。

世界的観光名所でもあるこの街。「ブルーモスク」などの美しいモスク群が、呼び物ですが…

イスタンブールのモスク。美しいイスラム教的な幾何学文様だが…
少し剥がすと、キリスト教的な壁画が出てくる

イスラム教的な幾何学文様のタイルを少しはぎ取ると、聖母マリアやイエス・キリストの肖像画をかんたんに見つけることができました。征服者であるオスマン帝国のスルタンが、宗教施設のありようを塗り替えてしまったのですね。
実は関門海峡にも、壇ノ浦の合戦場に沈んだ安徳天皇をまつる、「耳なし芳一」の怪談で有名な阿弥陀寺がありました。これを、明治政府が国家神道をおしすすめる過程で、「赤間神宮」という神社に衣替えしたという、全く同じようなエピソードがのこります。

第2回でとりあげたのは、中国の中で一国二制度を維持する、香港。

関門海峡をわたる「関門汽船」と似た雰囲気の、Star Ferryと呼ばれる渡し船が、両岸を足繁く行き来しています。

香港の「関門汽船」的存在、Star Ferry

ここは、アヘン戦争の結果、イギリスの植民地とされていた時代が長いのですが、香港島と九龍半島では、イギリスに割譲されたタイミングに17年ものギャップがありました。この時間差が、両岸の文化や価値観に大きな違いを生み出しました。

イギリス系の住民が多い香港島では、原子力発電のリスクを警戒する気分が強く、火力発電に依存しつつ、風力や太陽光などの新技術にも果敢にチャレンジ。一方、華僑が多く住み着く九龍半島では、多少のリスクには目をつぶり、コストが安くて供給も安定している原子力発電のメリットをフル活用。商魂たくましく、世界中に技術を輸出しています。

第3回は、アジアを代表するビジネス都市として成長した、シンガポール。

16世紀、来日前のフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル領だったシンガポールに2度、立ち寄った記録があります。
その後、日本に入ったザビエルを厚く庇護し、キリシタンとして洗礼も受けたのが、外交、教育、医療に熱心な大友宗麟。彼は関門海峡の片岸、門司城を足場に、対岸・長州藩の藩祖である戦略家、毛利元就と対峙しました。戦にはからっきし弱かった文化人、宗麟は、連戦連敗を重ね、居城に追い詰められるも、ザビエルの母国、ポルトガルからひそかに輸入した大砲10門を城内に据えてぶっ放し、大逆転。滅亡をまぬがれるのです。

シンガポール・マレーシア両国の架け橋、CauseWay

シンガポールにおいても、ジョホール海峡を境に、華僑とマレー系の厳しい対立がおこり、現在のマレーシアとシンガポールが分離独立。しかし、両岸の架け橋Causewayは、マレー側の安い生活費と、シンガポール側の仕事の高給の両方を求めて日常的に旅する人々で慢性的に渋滞。本来禁止されている徒歩での通行も、当局に黙認されているとか。

両国の分裂時には、悲嘆のあまり、眠れぬ夜を重ねたと伝わるシンガポール建国の英雄、リー・クアンユーは、得意の経済政策を武器に、生涯をかけてアジアの平和を希求。

シンガポール建国の父、リー・クワンユー(1923-2015)

「アジアが政治的に一つになるのは、100年経っても難しいかもしれない。しかし、経済的になら、数十年もかからずそれは可能なはずだ」との言葉をのこしています。

世界の海峡都市 Play Back (2)
ジブラルタル、メッシーナ…

第4回では、ヨーロッパとアフリカを隔てる美しい海峡、ジブラルタルを取り上げました。

地中海西端に位置するジブラルタル海峡は、瀬戸内海西端にある関門海峡と、「この世の西の果て」という位置づけがよく似ています。それゆえか、なんと神話の世界でも、つながりを感じさせるのです。

ジブラルタル海峡は、怪物退治の帰路、当地にさしかかったギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、山を叩き壊して造った。

三頭三体の怪物ゲリュオンを退治するヘラクレス。この帰路、世界西端の山を叩き壊して海峡を作り、渡って帰ったとされる。

関門海峡は、小さな穴(穴門:あなと)が空いているだけで本来地続きだったところに、神功皇后が船で通ったら、山が地響きを立てて割れて海峡になった。山だったところが奥に引っ込んで島(引く島、のちの彦島)をつくった。日本神話では、こう言われています。

第5回は、番組の中で岩崎達也教授が「世界でもっとも過酷な海峡都市」と評した、シチリア島のメッシーナが舞台。

述べ10カ国におよぶ周辺諸国からの侵略の連続と、度重なる大震災に、翻弄されたシチリア島。今はイタリアの一部ですが、両岸の政治的な複雑さから、橋もトンネルもつながっていません。鉄道車両を丸ごと飲み込んで海峡をわたる珍妙な連絡船が、未だに唯一の交通手段。

鉄道を丸ごと飲み込んで海峡をわたる連絡船

島の歴史や、シチリア人の魂を象徴している、と私には思えるのが、カトリック教会の聖女に列せられている、2世紀ごろの島いちばんの美女、アガタの伝説です。

ぜひ、過去5回の本編コラムもお読みください。

さて 改めて、海峡都市 関門。

さて、世界の海峡都市を巡ってきたこのコーナー。総集編に続いては、私たちの海峡都市、関門に戻ってお話を続けましょう。

海峡都市では、両岸に、相異なる存在が対峙します。たとえば宗教、民族、言語、習慣。

では、両岸ともに同じ日本という国内にあり、幅わずか700mという狭い海峡にはさまれた海峡都市、関門で対峙しているのは、いったいなんなのでしょうか。

関門の魅力は、まず景色、そしてグルメ。

しかし何と言っても、別の記事で富田隊長も書いていますが、歴史ロマンですよね。神功皇后、行教、平清盛、源義経、宮本武蔵、清虚、そして高杉晋作と伊藤博文。古代から幕末期までのあらゆる時代に、ヒーローやヒロインたちが出現します。

本州側の下関は、古くは2世紀ごろに仲哀天皇と神功皇后が御所を置いたという逸話にはじまり、1185年には壇ノ浦での源平合戦。そして、大内氏や毛利氏といった有力な大名たちによって都市開発が進み、近代日本の夜明けとなった明治維新の主要な舞台の一つにもなるなど、長きにわたり、日本史の表舞台に立ち続けています。象徴的なのは、ゴールデンウィークに行われる安徳天皇をしのぶお祭り、「先帝祭」でしょうか。

一方、九州側の門司(1963年の五市合併以降は、北九州市門司区)は、明治時代中期までは閑散とした土地でしたが、1901年の官営八幡製鐵所開業と前後して、石炭などの積出港として国策により整備され、新興の国際貿易港として発展。戦前戦中期の「富国強兵・殖産興業」政策と、戦後の高度経済成長を、ものづくりの力で支えています。こちらのお祭りは、毎年11月に開かれ、官営八幡製鉄所の開業を記念する「起業祭」です。

先帝祭
起業祭

中野金次郎、かく語りき

海峡大観の著者、中野金次郎

ここで、関門海峡を研究する上で大切な、大正12年に書かれた資料をご紹介しましょう。地元出身の実業家、中野金次郎が、門司商業会議所の会頭職にあった41歳のときに著した、「海峡大観」です。彼は運送業や保険業を営み、のち日本通運の設立にも参画するのですが、その慧眼で、港湾問題、貿易、海運、工業、交通、経済、自然、文化芸術、景観など、あらゆる側面から関門海峡のあるべき姿を分析、提言。関門海峡は、両岸を一体の「海峡都市」と考えたほうが、ずっと魅力的になる!との主張を、なんと100年近く前に唱えているのです。1995年に現代語訳が出されています。北九州市内の各図書館で今でも貸し出されているので、興味のある方はぜひ、ご一読を。

さて、この「海峡大観」の、「文化的に見たる海峡」という章に、こんな記述があります。(現代語訳版より引用)

「文化的に見た関門海峡の南北は、明らかに好対照をなしている。」

「相対している下関と門司は、一方はわが国にまれにみる旧都市であり、一方は突如として世間に認められた新興都市である。また、一方は二千年来、東洋文明の発祥の地として有名な歴史があり、一方は三十年来の、西洋文明によって理解を深めた色彩の強い新しい歴史がある。」

「海峡の南岸と北岸の文化的雰囲気をみてみると、全然その印象が異っており、北岸は、ゆったりとして古文的色彩が濃く、南岸は活発で、海外移住者によって経済的に開発された地域といった感じである。」

「北岸は日本画、南岸は洋画の気分である。」

現代の関門地域に生きる、しかも私のような地元にいることに慣れた人間は、日々の生活の中で、中野金次郎翁が述べるほどの極端な違いを両岸に感じることはできません。しかし、ほんの100年前には、両岸には日本画と洋画ほどの雰囲気の違いがあったのですね。

The 海峡詩人 金子みすゞ

私たち関門研のメンバーにも、弟のドラマー、たっくんとバンド「ミズニ ウキクサ」を組み、ネットTV番組のエンディングテーマ「凍る海」を歌う、ベースを抱えた「海峡ロック詩人」松本愛美さんがいますが。。

The 海峡詩人 金子みすゞ

松本愛美さんに先立つこと約100年前、山口県北部で生まれ育ったあと、関門海峡北岸の下関に移り住み、童謡雑誌への投稿で活躍したのが、The 海峡詩人、金子みすゞ(1903-1930)。

実は、松本愛美さん同様、彼女にも仲の良い弟がいました。のちに劇団若草を立ち上げた、劇作家で作曲家の上山雅輔(1905-1989)がその人。姉弟の資料をひもとくと、雅輔の日記の中に、こんな興味深い記述があります。

「下関駅は今や、日本で東京駅に次いで2番目に大きな駅だ。だが、こちらでは手に入らないレコードがあり、テルちゃん(姉・みすゞの本名)と一緒に、門司へ渡って買いにいくことにした」

下関駅の当時の規模が、本当に日本で2番だったかはともかく、大正時代の下関は、伝統ある大都市として、相当な栄華を誇っていたことがうかがえます。それなのに、ハイカラ好みの雅輔が手に入れたいレコードが売っていない。そこで、外国船の入港で賑わっていた新興の港湾都市である門司に、渡し舟でわざわざ渡って買いにいったというわけです。時代はちょうど、中野金次郎が「海峡大観」を著したほんの数年後です。

そんな金子みすゞの代表的な作品といえば、「私と小鳥と鈴と。」

みすゞと雅輔の故郷、仙崎。下関とは山陰本線の観光列車でつながっている。対岸の青海島との間を狭い海峡が隔てる。

私、小鳥、鈴。三者三様の個性があり、それぞれ苦手なこともあるけど得意なこともある。みんなちがって、みんないい。そんなことが歌われた、名作です。

ほかにも彼女は、優しさにあふれたたくさんの作品を残しており、「大漁」「おさかな」など、海や魚が出てくる作品が多いのも特徴です。

弟の雅輔が後年、語ったところによれば、「みすゞの詩の多くは、彼女の私生活から来ているのが、私にはわかるんですよ。私たちの故郷、仙崎は、当時、日本を代表する漁師町でしたから。」とのこと。

仙崎には、漁で獲った鯨を供養するためのお墓があり、獲物の鯨が雌だった場合、お腹の中に入っていることのある胎児を、実際に手厚く埋葬しています。先日、私も訪れましたら、地元の方に丁重に案内していただきました。いまだにお線香が絶えることはなく、漁民たちの優しい心根が旅人の胸を打ちます。みすゞの作品にも、鯨の弔いを歌った「鯨法会」があります。

関門の潮流は、伝統と革新の間を日々、往復する「引き分けの潮」

さて、この動画は、ある朝早く、私自身が関門海峡を門司側から撮ったもの。(この前に3分くらいナレーションを入れていたのですが、長いので、終わり10秒だけを載せています。)

これが、まさに私が日々、目にしている、関門海峡の日常の風景です。この動画を撮った時は、たまたま、潮の流れがほとんど止まっていました。これから、西向きの流れがちょっとずつ起こるというところ。ちなみに、毎日4回、西へ東へと潮の流れが変わるのは、読者の皆様にはもうお馴染みかもしれませんね。

こちらの岸は、ものづくり日本を支えた新興都市。対岸には売ってないレコードも売っていた、革新の街、門司。

あちらの岸は、平安時代以来、歴史の表舞台に立ち続け、明治維新の原動力となった、伝統の街、下関。

さて、どちらが上で、どちらが下ですか? 勝ったのはどちらでしょう?

などという質問は、読者の皆様には、野暮ですね。「私と小鳥と鈴と、下関と門司。」

もし、みすゞさんが今ご存命なら、こんなふうにおっしゃるでしょう。

どちらが上とも、下とも言えない、伝統の街と、革新の街。

その間を、毎日4回、西へ東へと潮流が行き来する。

この不思議な潮流は、月の引力、そして、東側の瀬戸内海と、西側の玄界灘の海面の高さの差によって起こると、第4回の番組で、第7管区海上保安本部の梅田課長から解説がありましたね。ということは、瀬戸内海と、玄界灘も、どちらが上でも下でもない。一時、どちらかが上になっても、6時間後には必ず反対側が上になって、長いタイムスパンで見れば、どっこいどっこい。。

そんなことを思っていてふと、考えたのです。

毎日4回、西へ東へ行き来する、関門海峡の潮流は、「引き分けの潮」なのではないかと。

ついつい、人をカテゴリー分けし、安直にレッテルを張って決めつける。特に、少数派だったり、目立つ人、ユニークな個性をもつ人に対して、厳しい見方をぶつけて責め立てる。そうすることで、自尊心を保ったり、自分が抱えているコンプレックスやジェラシーをごまかしたりする悲しい性が、誰の心にもあります。

そんな時、旅人の皆さんに、思い出していただきたいのです。

「いや、待てよ。いつか旅した関門海峡。あそこは、伝統の街と革新の街の間を、潮の流れがひたすら、行ったり来たりしながら、悠久の時を刻んできた、そんなふうにガイドさんから聴いたな。」

「そう、どちらが上でも下でもない、勝ちも負けもない。引き分けの潮が流れる、平和の海峡。。とか聴いたっけ。」

この世のあらゆる争いごと。国家間の戦争でも。学校のいじめでも。その間に、関門の、「引き分けの潮」が流れますように。

「引き分けの潮」が時をこえ、絶え間なく流れ続けるここ、海峡都市・関門が、世界に平和を発信するシンボルとなりますように。

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