シチリア島、メッシーナ市側からみた海峡。ギリシャ神話にも登場する光景。 By Shifegu, CC0, Link

メッシーナ海峡。

地中海の中央に位置し、アフリカ・チュニジアにもほど近い夢のリゾート、シチリア島。そして、陽気に観光客をもてなす気質で知られる、南イタリア。その間を隔てる、幅3kmと比較的狭く、そして美しい海峡です。

両岸どちらも、現在はイタリア共和国に位置しますが、見た目の美しさ、華やかさからだけでは計り知れない、数奇な歴史に彩られているのは、これまで取り上げてきた海峡都市たちと変わりありません。

シチリア島を支配した国家は、ローマ、ギリシャ、カルタゴなど、歴史上、10カ国以上。ひんぱんに入れ替わる支配者たちに対抗して、島民たちには、誇り高き独特の「シチリア人」意識と、叛骨精神が形成されていったのです。

世界の海峡都市 #5 メッシーナ

海峡都市。
そこでは、兄弟のような二つの都市の真ん中に、世界につながる海が流れています。

関門海峡なら、その幅は、最短でわずか700m。
海峡をへだてて、異なる文化、異なる価値観、異なる存在が向かい合う。

微妙に違うあの町とこの町が、船で、橋で、トンネルで結ばれ、
日常の内側に、「旅」が包み込まれていく。

あちらとこちらの人々が、複雑な歴史と感情を引きずりつつも少しずつ交わり、
そこから新たな文化が創造されていく。

海をはさんだ異文化との接点が日常にとけ込む独特さが、旅人を魅了してやまない、
「世界の海峡都市」の数々をご紹介するこのシリーズ

今回取り上げるのは、メッシーナです。


イタリアの地図。赤く染まった部分がシチリア島、半島本土との間がメッシーナ海峡 by TUBS, CC BY-SA 3.0, Link

【国家名】イタリア共和国

【海峡名】メッシーナ海峡

【都市名】海峡東岸:レッジョ・ディ・カラブリア|ギリシャ文明にルーツをもつ、芸術と文化の街

海峡西岸:メッシーナ|周辺諸国による争奪戦に翻弄されたシチリア島の、玄関口となる港町

【両岸最短距離】およそ3km

【海峡都市エリア人口】およそ90万人

【宗 教】キリスト教(カトリック)

数奇な歴史の島、シチリア

今回のコラムは、シチリア島のことならお任せ!

旅行、留学、ホームステイ、ビジネスなど、あらゆるシーンで日本とシチリア島の架け橋になってくれる存在。

小湊照子さん

Sicilia Way (シチリア・ウェイ)の、在シチリア 日本人コーディネーター。

シチリア島のガイド本「太陽と海とグルメの島 シチリアへ」も出版されている 小湊照子さんに、全面的に取材にご協力いただきました。

Sicilia Wayのウェブサイト (この画像をクリックすると開きます)

シチリア島に限らず、イタリアの人々は、自分の地元、自分の街に対する思い入れがたいへん強いとのこと。18世紀末に、ナポレオンがフランスからイタリア半島へ侵入したことを契機に、イタリアは、あたかも日本の戦国時代のような群雄割拠の時代に。シチリア島も、この当時は「シチリア王国」という独立国で、特定の人々が農民からコストを徴収しつつ農地を管理する、独自の自治システムが発達しつつありました。

混乱と闘争の時代を経て、1861年に、イタリア半島とシチリア島は、双方を含む形で、イタリア王国として統一されたのですが、今なお、群雄割拠時代の気質が残っているのですね。シチリアの人々には、「自分たちはイタリア人というより、シチリア人だ」という意識が強く、イタリアに全部で20ある州の中でも、シチリア州は「特別自治州」のひとつ。一定の分野で、独自の法律をつくる権利が認められています。

三脚巴と呼ばれる独特のデザインのシチリア州旗

イタリア共和国旗とは別にシチリア州の旗というのもあり、なんと紀元前からシチリアのシンボルとして使われているそうです。先にも書いたように、10ヶ国にも及ぶ周辺諸国の争奪戦の舞台となり続ける中で、「それでも、自分たちはシチリア人だ!」という誇りを忘れないために、きっとこの旗をひそかに掲げて、神に祈りを捧げたのではないでしょうか。三脚巴の三本の足は、メッシーナ市を含む、シチリア島の主要な3つの都市を象徴しているともいわれます。

シチリアのアガタ

こんなシチリアを象徴する、聖女の伝承がカトリック教会に伝わっています。時代は紀元2〜3世紀ごろ。関門海峡では、日本初のワーキング・マザー神功皇后が、お腹に応神天皇を宿したまま、南へ北へと八面六臂の活躍をみせていた頃。

シチリアの聖女アガタ。ふたつの乳房を皿に乗せてもつ姿から、乳がん患者の守護聖人といわれる

シチリアいちばんの美女といわれた、アガタという娘がおりました。

当時の島の支配者はローマ人でしたが、アガタの美しさに魅了され、求婚。しかしアガタがそれを拒んだため、怒った支配者から拷問を受けた彼女は、両方の乳房を切り落とされるというひどい仕打ちを受けます。さらに、怒りのおさまらない支配者は、アガタを火あぶりの刑に処しようとしますが、まさに執行人が火をつけようとした時に地震がおき、辛くも命拾いすることになりました。

その後、獄中にあらわれた不思議な老人が、乳房の治療を申し出ますが、殉教を覚悟していたアガタはそれをも拒否。すると、老人は微笑み、「それでよいのです。私は、主があなたのもとに遣わした使いです」と語ります。その瞬間、胸の傷はすっかり癒されていたといいます。

怒れる支配者からさらなる追及や拷問を受け、結局、最期は獄中で殉教することになったアガタ。しかし、その名はカトリック教会の7人の聖女のひとりに列せられ、シチリアの人々の誇りの象徴として、現代に伝わっています。

怒れる支配者は、シチリアを奪い合い、蹂躙(じゅうりん)する、周辺10カ国の象徴でしょう。そして、実際シチリア島は地震が多い場所。耐震建築の技術が十分に確立されていなかった20世紀初頭までは、大地震で何万人もの人々が命を落とすということがたびたび起こっています。

地震でアガタが命拾いする場面には、地震で大切な人を亡くす経験の多かったシチリアの人々の、ひそかな祈りが込められている。そんな気がしてなりません。

メッシーナ海峡をわたるには?

こちらは、小湊さん提供の貴重な動画です。30秒ほどですのでぜひ、ご覧ください。メッシーナの港に接岸する、鉄道連絡船。

そう、メッシーナ海峡を渡る手段は、この鉄道連絡船なのです。鉄道車両が連結を解かれ、そのまま船に乗り込んで海峡を渡る。なんとも、ユニークな光景ですね。

関門海峡にも、われらが「関門汽船」が走っていますが、燃費を重視した、旅客専用の小型船です。航路は短く、わずか5分間、甲板で風を切っていれば、あっという間に対岸へ。関門橋や国道・鉄道トンネル、そして歩いて渡れる人道トンネルでも両岸はつながっていますので、船による大量輸送の必要はないのです。

大型船の合間を、直交する角度で縫い、疾走する関門汽船 by Si-take, GFDL, Link

ところが、ここメッシーナ海峡には、橋もかかっていなければ、トンネルも通っていません。唯一の交通手段は、1日に16往復するこの鉄道連絡船なのです。

何十年も前から、橋をかける計画ができては潰れ、できては潰れの繰り返し。それは一体、どういうわけなのでしょう??

やはり大きいのが、橋をかけるのにかかるお金の問題です。仮に橋をかけるとなると、日本の明石海峡大橋に匹敵する、3kmを超える世界最長クラスの橋になります。国家財政を相当に圧迫すると懸念されているのです。橋の建設に使われる予算が、ある種の利権と化し、よからぬ方向に流れることを心配する向きもあります。地震が多いので、耐震強度の確保も、技術面での大きな問題です。

一方、鉄道連絡船には自動車も積めるのですが、両岸の港周辺の道路事情がよくなく、船の発着時間前後は、渋滞が頻発しています。「同じお金をかけるなら、まずは港の周りの道路を整備したほうが、橋をかけるよりも安上がりに、海峡をわたるのにかかる時間をトータルで減らすことができる。」これが、橋の建設に反対する人々の言い分です。自然保護団体による反対運動などもあるようです。

明石海峡大橋。全長3,911mは、関門橋の3倍以上 by Tysto, CC BA-SY 3.0, Link
メッシーナ海峡連絡船では、船内に、このように鉄道の車両が乗り込む(小湊さん提供)

美食の海峡、メッシーナ。
関門も、負けちゃあいない。歴史ロマンもあわせて、召し上がれ。

さて、メッシーナ海峡。関門海峡同様に潮流の速さで知られ、「世界三大急潮流」にも数えられます。日がな一日、激流がほとばしる、というわけではありませんが、日本の鳴門海峡並みの渦潮が観測されることも。そんなメッシーナ海峡周辺は、どう猛な回遊魚、メカジキの漁場としても知られています。

一方、関門海峡は、タコの漁場なのです。

関門海峡の沿岸部には、たくさんの小さな漁港があり、それぞれ得意分野が違います。前回の「関門時間旅行」LIVE中継で、舞台「子午線の祀り」で源義経に扮した俳優、成河さんが訪れた長府漁協は、実は、タコつぼ漁が得意。タコつぼ漁は、漁の方法としては非効率である反面、タコの身体に傷がつかないために珍重され、高く売れるということで、古くから伝承されています。タコツボは、関門海峡のように、潮流の速いところに仕掛けないと効果がありません。潮の流れが変わった時に、身を守るために隠れ場所を探すというタコの習性を利用した漁法だからなんですね。

代表的なシチリア料理「メカジキのマリネ」

関門の潮流と言えば、源平壇ノ浦の合戦の勝敗を分けたポイント。

ちなみに、先に登場した長府は、源氏方の総大将、源義経が、決戦前に立ち寄った港でもあるのです。当時は櫛崎の港と呼ばれていたこの地は、造船技術が極めて高く、「櫛崎船」として造船の歴史にも名を残す高速船の産地でした。戦略家だった義経は、現地の豪族を説得し、この高速船「櫛崎船」24隻を、源氏方として駆り出すことに成功したのです。これも、義経が勝利をおさめた大きな理由のひとつとされています。

関門海峡両岸には、地元で採れたおいしいマダコを、刺身で食べたり、茹でたり、マリネにしたりという食文化が根づいていて、地ダコが楽しめる料理店やお寿司屋さんなどもたくさんあります。それぞれの地の利を活かしたご当地グルメを、歴史ロマンとあわせて楽しむのも、海峡旅行の醍醐味のひとつと言えそうです。

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