今回の珍百景は、関門海峡の海底。さあ、海の底をのぞいてみてください。
いますね、たくさん。それも怒りに満ちた顔・顔・顔…。壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たちの霊が宿ったとされる、平家蟹。
下関の実家には、この平家蟹がいます。といっても、アクリルで固められた平家蟹の“文鎮”です。家族が買ったのか、誰かからもらったのか、入手経路は定かではありませんが、リビングに40年以上鎮座まします。平家蟹の文鎮は空気のような存在感、まったく違和感なく日常に溶け込んでいる。でもよく考えてみると、これは珍しい光景かもしれません。なぜなら、平家の怨念を背負った蟹をリビングに飾っているのですから!実家にある平家蟹の文鎮。いまはお土産物屋でも見かけなくなりましたが…
恥ずかしがり屋の平家蟹
11月下旬、生きた平家蟹に会いに行こうと、下関の水族館「海響館」に足を運んでみました。目前は関門海峡、というロケーションを誇る「海響館」には、関門海峡に生息する生き物を展示する大きな水槽がいくつもあります。今回案内してくださったのは、魚類展示課主任の石橋將行さん。さっそく平家蟹のいる水槽へGO!
「海響館」の魚類展示課主任の石橋將行さん。平家蟹コーナーにて。
水槽をのぞくと、甲長は約2.5cmとほぼ10円玉の大きさで、とっても華奢な平家蟹。でも肝心の甲羅の上にはなにか乗っていて、あの顔が拝めません。「平家蟹は、甲羅の上に貝殻や板などを背中についた小さな脚で背負う習性があります」と石橋さん。つねにあの顔で海上をにらみつけているわけではないようです。
敗者の無念をこんな小さな蟹に背負わせた。でもいつも貝殻などで隠している。シャイなのです。
なんでも、関門海峡で底びき網をしている漁師さんから網にかかったときに連絡があり、ご提供いただいているものだそうです。ところが、「平家蟹の寿命はとても短く、飼育が難しいカニなんです。エサや水温、水槽の大きさ等を工夫して、できるだけ長生きさせようと努力しているのですが…」
そう、平家蟹は脆弱なカニなのです。なのに、かのような伝説を背負わされることになろうとは、平家蟹も妙な宿命を負わされたものです。というわけで、平家蟹を見たいという方は事前に海響館に問い合わせることをおすすめします。
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イメージをかきたてる平家蟹の仲間たち
平家蟹は関門のみにあらず。北海道南部、相模湾、瀬戸内海、有明海、朝鮮半島、中国北部、ベトナムにいたるまで、広い範囲に生息している蟹であり、サメハダヘイケガニ、イズヘイケガニ、ヒメヘイケガニ、カクヘイケガニ、マメヘイケガニなど類似のものも多いのですが、いずれも怒った顔のように見える甲羅を持っています。
興味深いのは、歴史の舞台となった地で呼び名がかわること。
たとえば、源頼朝の命で処刑された長田忠致(ただむね)・景致(かげむね)父子にちなんで「長田蟹」、南北朝の内乱を描いた『太平記』にも登場する大物浦(だいもつうら)で自害した秦武文(はたのたけぶん)にちなんで「武文蟹」、大物で入水した島村貴則にちなんで「島村蟹」、豊前・柳ヶ浦で入水した平清経にちなんで「清経蟹」といった具合です。厳密に突き詰めると、すべて同一種のヘイケガニというわけではないようですが、悲劇の人物、英雄の面影を重ねた点では一致します。
歌川国芳の浮世絵では迫り来る平家蟹が描かれている(左上)
シーボルトもふるえあがった!? 平家の怨念
この平家蟹、海外から熱視線を注がれた蟹でもありました。海外に初めてその存在を知らしめたのは、シーボルトではないでしょうか。
ご存知、シーボルトは江戸時代、長崎で医学を伝授したことで知られるドイツ人です。世界に貿易網を広げるオランダから命を受けて、鎖国中の日本の動植物の生態や地形について調査し、帰国後、日本についての著書を刊行、世界に日本のことを伝えた伝道師となりました。
シーボルトが30歳の頃、下関に滞在したことがあります。下関市立歴史博物館で『シーボルトと下関』展(2017年8〜10月)を企画した学芸員の田中洋一さんにお話を伺いました。
田中さん曰く、「オランダの命で鎖国中の日本へ調査にやってきたシーボルトが、長崎の出島から江戸幕府へお礼の旅へ出かける江戸参府の途中、1週間ほど下関に滞在しています。そのとき、地元の医者(かつてのシーボルトのお弟子さん)から、この地に棲息する珍しい生きものの一つとして平家蟹を紹介されています」
シーボルトの著作『日本』には「このウミガニを波間に沈んだ平家一族の勇士が変身したものだと信じている」とあります。あの形相にシーボルトもさぞかし驚いたことでしょう。
じつはヨーロッパにも甲羅が人の顔に見える蟹がいます。その蟹はカッシウェラウヌス。紀元前1世紀に実在したブリトン人の王様の名前を背負った「Mask crab(仮面蟹)」。ちなみにこんな顔をしています。シーボルトがこの蟹を知っていたかどうかはわかりませんが、インパクトでは平家蟹の勝利です!
カッシウェラウヌス。和み顔にホッとします。(© Hans Hillewaert )
なおシーボルト一行は、江戸参府の際に関門海峡の測量も行なっています。関門海峡になんらかの可能性を見出したのか、敬愛する男爵の名をつけ「ファンデル・カペレン海峡」と命名しています。名付けの理由は記載されていないようですが、将来的に関門海峡が貿易の重要な拠点になると判断したのではないかと、田中さんは推測しています。
平家蟹の謎は、海を越えて大論争に!
平家蟹にまつわる闘いは、半世紀前にも日米論争を巻き起こしていました。
アメリカのノーベル賞学者ジョセフ・マラー氏が来日した時、お土産物屋で購入した平家蟹の標本に興味を持ち、イギリスの進化生物学者のジュリアン・ハックスリ氏とともに研究、「日本人が平家蟹を平家の亡霊と忌み嫌って食べないから、結果的に平家蟹の保護につながり、それが影響してあのような顔になった。屋島、壇ノ浦から遠ざかるに従い、その面相にも変化が見られるのではないか」という人為的進化の持論を打ち立てたのです。
「そんなことがあるか」と異論を唱えたのが、日本のカニ先生と謳われた日本甲殻類学会の会長・酒井恒博士です。ハックスリ氏本人から民俗学者の柳田国男氏経由で、酒井博士のもとに問い合わせがあり、酒井博士は次のように反論しました。
・北は紀伊半島、南は有明海、朝鮮半島の黄海沿岸、中国、台湾にも分布していること。
・広く分布していても平家蟹の種の特徴に変わりがないこと。
・日本人が平家蟹を食べないのは平家の亡霊を恐れているからでなく、
殻ばかりで固く肉もないため。
・平家蟹に似た蟹の化石も出ていること。
(酒井博士の著書『蟹ーその生態の神秘』講談社より)
日米平家蟹論争の発端となった『LIFE』(1952年8月11日号)と海外論争を報じた朝日新聞(1985年3月23日夕刊)
ところが、ハックスリ氏はなぜかこの返信をガン無視。アメリカの週刊誌『LIFE』(International Edition版)1952年8月11日号に進化人為説を掲載し、センセーショナルに平家蟹の奇妙な進化について伝えました。さらにこの論文をもとにアメリカの学者カール・セイガンがベストセラー書『COSMOS』でとりあげたものだから、人為的進化論はヒートアップ。この日米平家蟹論争は、朝日新聞(1985年3月23日夕刊)で紹介されており、記事では「化石が出土していることが大きな証拠だから、現時点では日本に軍配あり」とまとめられています。
その後、決着がついたのかどうか、定かではありませんが、海を越えて論争を巻き起こした平家蟹。国内外問わず人々のイマジネーションをかきたててしまうのは、やはり壇ノ浦の合戦という歴史的大転換のドラマが背景にあったからでしょう。
あの顔の正体は?
人間は3つの点が集まった図形をみると、人の顔にみえるような現象がおこります。これを「シミュラクラ現象」といいますが、正面から見た自動車も、天井の木目も、どこか人の顔にみえてしまうのも同様の作用ですね。その”顔”に重ねた面影は、勝利者や成功者ではなく、悲劇の人物や英雄たち。
では、なぜあの顔のように見えるのか。現実に引き戻すようなことを言いますと、内臓の位置や筋肉の付着点によって甲羅に凹凸やくぼみできる。それがたまたま人の顔に似ている、ということです。具体的にいうと、つりあがった目のように見える部分は左右の鰓(エラ)域と呼ばれるところが溝で区切られた部分、鼻に見える部分は心臓、口に見える部分は腸の通じている腸域という部分が甲尻にそって広がる横溝。
当の平家蟹は、背負う甲羅がこんなに世間を騒がせていたなんて、知る由もなし。
<平家蟹を知る2冊>
『蟹 その生態の神秘』(講談社)酒井 恒
刊行は昭和55年。当時研究が進んでいなかった甲殻類・蟹を専門に研究した酒井博士の一般向けの書籍。平家蟹のみならず、多様な蟹の生態が詳しく紹介されている。謎多き蟹の世界へどうぞ。
『南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学』(河出書房新社)責任編集・解題 中沢新一
粘菌研究で知られる民俗学者の南方熊楠も、平家蟹に注目していた。シーボルトが見たことも(シーボルトが名付けたと記されていますがこれは誤りのようです)、英国の仮面蟹のことも取り上げている。
<アクセス情報>
市立しものせき水族館「海響館」
下関市あるかぽーと6-1
TEL 083-228-1100
http://www.kaikyokan.com/
下関市立歴史博物館
下関市長府川端2-2-27
TEL083-241-1080
http://www.shimohaku.jp/
現地に行っても行かなくても楽しめる
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平家蟹❣️