第1回の高杉晋作に続き、幕末編第2弾です。今回は伊藤博文です。
初代の内閣総理大臣ですが、いや~、高杉晋作に比べると、人気ないですね~。千円札になっていた頃(昭和38年~61年)にはもっと身近な存在だったのでしょうが・・・。
しかし、伊藤博文は関門海峡とは切っても切れない深い関係にあります。特に下関港開港には大きな役割を果たしているのですよ。
※伊藤博文は利助、俊輔、春輔と名前を変えていますが、ここでは博文に統一させていただきます。井上馨(聞多)も同様です。
松下村塾では劣等生だった伊藤博文?
伊藤博文は天保12年(1941)、周防国束荷(つかり)村(現在の山口県光市)の農民の子として生まれます。父が仲間(ちゅうげん)の伊藤家に養子に入ったため萩に移ります。仲間とは武士の最下層の身分です。
伊藤は江戸湾警備のため、相模の国に派遣されますが、ここで上司であった来原良蔵(桂小五郎の義弟)と出会い、
彼の紹介で帰国後、吉田松陰の松下村塾に入ります。松下村塾とは、近所の若者を身分に関係なく入門させる塾で、緒方洪庵の適塾や広瀬淡窓の咸宜園のように全国からエリートを集めた塾とは性格が異なっています。
この塾で最も優秀といわれたのが久坂玄瑞です。吉田松陰は久坂に対して、「防長における第一流の人物」「天下の英才」と評しています。手放しのほめようですね。
これに対して、伊藤博文への評は結構、キビシイのです。「才劣り、学幼き」「質直にして華なし」。そして、「周旋家」になりそうだとも言っています。周旋とは売買・交渉などを当事者間に立って行うことです。つまり、「あんまり頭はよさそうじゃないけど、真面目だし、まあ、パシリくらいなら使えるかな」というニュアンスが感じられますね。
幕末の関門海峡は「世界のショーケース」になった
安政5年(1858)に日米修好通商条約などが締結された後、各国は横浜~長崎~上海などの航路を設定します。それらの船が関門海峡を通るようになったのです。
関門海峡は狭いところでは700mしかないので、船を本当に間近で見ることができます。
「でかっ!」
これが海峡沿岸の人々の印象だと思います。
江戸時代の和船は一番大きな千石船でも全長が30mに満たないのに対して、外国の蒸気船は倍以上の長さがありました。間近に見られるが故に、人々の衝撃は大きかったことでしょう。
特に、外国人を排撃しようとする攘夷思想を抱く長州藩士に与えた心理的な影響は計り知れないと思います。ただ、彼らのリアクションには二とおりあったはずです。
「とにかく、外国船が通ることが許せない!」という感情を前面に出す人と、「あんな船はどうしたら造れるのだろう」というリアルな疑問を持つ人です。
その違いが長州藩の尊王攘夷派志士たちの運命を分けます。
前者の代表が久坂玄瑞です。松下村塾のエリート志士は過激な攘夷運動を主導し、その頭脳を駆使して朝廷に取り入り、政局の主導権を握っていきます。ついには、幕府の将軍に、文久3年(1863)5月10日を期して攘夷を実行することを認めさせるのです。
伊藤博文、長州ファイブに「もぐり」で参加?
一方、後者の代表が井上馨(聞多)です。井上は松下村塾とは無関係ですが、佐久間象山や勝海舟の影響を受けて、攘夷の無謀さを感じており、「まず相手を知ることだ!」と英国への留学を望みます。当時は日本人の海外渡航は幕府によって禁止されていたので、密航するしかありません。井上は山尾庸三、野村弥吉(井上勝)をさそって懸命に藩に働きかけます。
その井上馨から、伊藤博文も誘われたのです。伊藤は高杉晋作や久坂玄瑞らについて攘夷活動を行っていましたが、海外に出たいという思いも秘めていたため、井上の誘いに乗ります。
井上の働きかけによって、藩は文久3年4月18日、井上、山尾、野村の3人に5年間の暇を与え、イギリス留学を許可する内命を下します。3人には「稽古料」として200両が下されました。
伊藤博文は落選したのです。そこに身分の差が影響したかどうかは分かりませんが、伊藤はあきらめずに食い下がります。
結局、家老の周布政之助が黙認するということで決着しました。いわば、もぐりです。当然、200両も受け取れませんでした。このとき、江戸で航海術を学んでいた遠藤謹助も同様に黙認されました。
後に長州ファイブといわれる密航者も、伊藤の執念がなかったら、長州スリーだったかもしれないのです。
伊藤らが渡航準備を進める間に、運命の日が訪れました。文久3年5月10日、攘夷決行の日です。もちろん、幕府も、各藩も本気で外国船を砲撃する気はありません。
本気だったのは長州藩だけです。この日、アメリカ商船・ペンブローク号が田野浦沖に停泊しました。しかし、総大将の毛利能登はさすがにビビったのか、攻撃命令を出しません。そんな中、光明寺(こうみょうじ)に集結していた久坂玄瑞率いる50人あまりの藩士や浪士(光明寺党と呼ばれています)が命令を待たずに、藩の軍艦に勝手に乗り込んでペンブローグ号に接近、砲撃しました。
その2日後の5月12日、自分たちの藩の攘夷決行など知るよしもない伊藤博文ら5人は横浜港から、ジャーディン・マセソン社のチェルスウィック号に乗って出港しました。わずか2日のタイムラグが、この後、久坂と伊藤の運命に大きな溝を作っていくのです。
伊藤らが上海を経由してロンドンに着いたのが9月23日です。
わずか半年で帰国する勇気…伊藤博文の人生を分けた決断
ロンドン生活も半年を経った頃、伊藤博文はロンドンタイムスの記事を見て衝撃を受けます。英米仏蘭の四か国連合艦隊が下関攻撃を計画していることが記事に出ていたのです。
伊藤博文と井上馨は、戦争を回避させるために急遽、帰国することを決意しました。4か月かけて命がけでやってきたロンドンをわずか6か月で離れるのです。しかし、英国に来て、その文明のすごさを実感した二人は、攘夷がいかに無謀なことかを思い知らされていたのです。
伊藤にとって、人生最大の決断かもしれません。出発する勇気よりも、帰る勇気のほうが大変だったと思います。もし、ここで残留していたら、伊藤の人生は有能だけど一介のテクノクラートとして終わっていたことでしょう。ちなみに、このとき残った3人は、明治を技術ひとすじに歩み、後に、山尾庸三は工業の父、野村弥吉は鉄道の父、遠藤謹助は造幣の父と呼ばれます。
元治元年(1864)6月10日に横浜に着いた伊藤博文と井上馨は、英国公使のオールコックを訪ね、「攘夷活動を止めさせるから攻撃を待ってくれ」と懇願し、了解を得ます。ここで、伊藤は通訳のアーネスト・サトウと出会います。サトウは日本に憧れて、前年8月に来日し、駐日公使館に通訳として勤めていました。まだ20歳です。22歳の伊藤と意気投合したようです。
6月20日、伊藤と井上は、サトウとともに英国軍艦バルサ号に乗り込み、下関に向け出航します。23日、豊後国(大分県)の姫島沖に投錨しました。英国軍艦は攘夷の対象であり、これ以上近づくことはできないのです。二人は船を降り、漁船を借りて長州藩領に戻りました。
伊藤と井上は藩主や幹部に対し、攘夷の無謀さを説き、藩論を開国に転換するように懸命に訴えました。しかし、当時の藩は攘夷排外気分が強く、説得は実りませんでした。
井上は悲憤のあまり、武士として潔く切腹するといいだします。伊藤は懸命にそれを止め、「未だ失望するときではない。人事をつくすべきだ」と説得しました。どうも、井上馨という人は短気なようで、この後も、難題が持ち上がるたびに、「切腹する!」とわめき、その都度、伊藤が説得するということが続きます。
伊藤博文は、家老の清水清太郎から、京に行くように命令されました。激派の来島又兵衛らに率いられた長州軍が京に上り、御所に向かって暴発しそうというのです。前年の8月18日、朝廷を牛耳っていた長州藩は、薩摩藩・会津藩のクーデターにより京を追われていたのでした。伊藤は「未然に説得せよ」という命令を受けます。
伊藤は早駕籠で出立しました。しかし、7月20日、備前岡山で、京から落ちてくる長州兵に遭遇します。聞けば、前日、長州兵は京都御所の蛤御門付近で会津・薩摩藩兵と衝突、敗退したのでした。死者の中に、久坂玄瑞がいました。久坂は来島又兵衛らの出兵に反対でしたが、抑えきれずに同行し、自刃したのでした。このエリートのあっけない死を伊藤はどう感じたのでしょうか。
天才スター 高杉晋作をプロデュースした伊藤博文
その裏交渉と大阪屋での伝説の接待
長州藩にとっては弱り目にたたり目、8月5日、四か国艦隊が下関を砲撃します。17隻の軍艦が一斉に前田や壇ノ浦の砲台を砲撃しました。さらに、前田海岸に上陸し、大砲を破壊しました。四か国にとっては、攘夷への報復というよりも、関門海峡の制海権を得るのが貿易にとって死活問題だったのです。
完膚なきまでに叩きのめされた長州藩は、講和の正使に高杉晋作を抜擢します。彼に家老・宍戸刑馬を名乗らせて交渉を任せたのでした。しかし、高杉は英語ができません。そこで、通訳として伊藤博文と井上馨が同行しました。
高杉は陣羽織を着し、立烏帽子をかぶって、堂々と、英国軍艦・ユーリアス号に乗り込みます。艦では提督のクーパーが待っており、その横に、通訳のアーネスト・サトウがいました。
サトウは高杉を「魔王のように傲然と構えていた」と書いています。しかし、「だんだん態度がやわらぎ、すべての提案をなんの反対もなく受け入れてしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ」とも書いています。
実は、交渉に先立って、伊藤は単独で船に乗り込み、サトウと打ち合わせをしていたのです。「動くこと雷電」のごとき高杉も、伊藤の冷静で粘り強いサポートがあって、はじめて交渉を成功させたのでした。
伊藤博文は高杉晋作という天才的スターに活躍の舞台を与えたプロデューサーなのかもしれませんね。まさに、「周旋家」の面目躍如といったところでしょうか。
講和が成立したことにより、外国船舶の関門海峡の自由通行、船員の上陸許可、外国船への必需品の販売が行われるようになりました。事実上の開港です。しかも、幕府を介さない初の開港です。
その後、政治的には紆余曲折があり、内戦が続きますが、この開港が明治維新への大きな画期になったことは間違いありません。
調印が終わった後、伊藤博文はアーネスト・サトウを下関の料亭「大坂屋」(旧・東京第一ホテル下関の場所)に招いています。サトウはこの会食の事がよほど印象に残っているのか、メニューをくわしく記しているのです。「鰻の焼いたやつ、すっぽんのシチューが大変にうまかった」と書いています。
二人は大坂屋から関門海峡を眺めながら、歴史の潮目を感じ取ったのではないでしょうか。
※今回はここまで。明治に入っても、伊藤博文には関門海峡にまつわるエピソードがありますが、それらは、伊藤博文の個性あふれるパートナー、杉山茂丸や末松謙澄と絡ませて、別項で書いてみたいと思っています。お楽しみに。
“偉大なる「非凡な凡」日本の初代総理大臣 伊藤博文” に対して1件のコメントがあります。