関門海峡に浮かぶ無人島・巌流島(がんりゅうじま)。慶長17年(1612)4月13日、宮本武蔵(みやもとむさし)はこの島で佐々木小次郎(ささきこじろう)と戦い、勝っています。そのことは有名ですが、では、何で武蔵は小次郎と決闘したかとなると、そのへんは謎に包まれているのです。
また、宮本武蔵にとって関門海峡は決闘の場所だっただけでなく、後に7年間暮らす生活の場でもありました。
というわけで、関門人物伝、第2回は宮本武蔵です。
実は関門海峡に浮かぶ、あの有名な無人島「巌流島」に行こう!
宮本武蔵を語る前に、まずは、巌流島へ行きましょう!
巌流島の本当の名前は船島といいます。この島に行くには、門司と下関から出ている連絡船に乗ります。門司側は門司港駅のすぐ近く、下関側は唐戸市場の横に船着き場がありますので、すぐわかります。いずれも40分おきに船が出ていますし、乗船時間は10分程度ですから、気軽に上陸することができます。
船を降りると、「ようこそ巌流島へ」というアーチが出迎えてくれます。まさに関門時間旅行の入口です。ワクワクしますね。島は遊歩道が整備された公園風になっています。まず、舟島神社にお参りし、村上元三『佐々木小次郎』の文学碑や佐々木小次郎の碑を見学します。少し歩くと、島の先端部分に武蔵と小次郎の決闘を描いた像が見えてきます。武蔵が木刀を振り上げ、小次郎は物干竿の異名をとる長刀を構えています。この空間だけは空気が引き締まっていますね。角度によれば対峙する二人の間に関門橋が見え、まさに海峡の決闘だと実感します。
島の面積は10万3000㎡で、東京ドーム2個分の大きさですが、そのほとんどは近代になって埋め立てられたもので、当時の島は1万7000㎡で、細長い、まさに舟の形をした島だったのです。
で、この船島、なんで巌流島と呼ばれているのでしょうか? 実は厳流とは佐々木小次郎のことなのです。小次郎の号であり、流派の名前でもあります。
普通に考えると、勝った方を讃えて、武蔵島になってもよさそうなのに、なんで負けた巌流の名前がついたのでしょうね。何か訳ありみたいですね。
陰謀が渦巻いていた江戸時代初期の小倉藩
剣豪・武蔵のイメージは吉川英治の『宮本武蔵』や井上雅彦の『バガボンド』が強いのですが、その実像は謎に包まれたままです。取り上げる史料によって大きく違ってきます。
宮本武蔵は、自身が書いたとされる『五輪書』によれば天正12年(1584)に播磨で生まれ、諸国を回って厳しい修行を積みました。60余度の他流試合をして一度も負けたことがないまま、小倉にやってきます。対決のときは28歳くらいです。
一方の佐々木小次郎は武蔵以上に史料はありません。吉川英治は岩国生まれで、対決時は18歳の美少年として描いています。
しかし、近年、佐々木小次郎は小倉藩が治める豊前の国で生まれたという説が有力になっています。『彦山・岩石城と佐々木小次郎』(梶谷敏明著)によると、佐々木小次郎は岩石城(がんじゃくじょう 福岡県田川郡添田町)を拠点とした土豪、佐々木氏の一族で、彦山の山伏から兵法を学び、岩石城から「岩流」(巌流)と名乗ったと考えられています。
いずれにしても、佐々木小次郎はその剣術を活かして、小倉藩の剣術指南になっていたようです。『二天記』によると小次郎もまた、一度も負けたことがないということです。まさに地元のヒーローです。
そこに、宮本武蔵がふらりとやってきたのです。無敗のチャンピオンが二人も小倉藩に存在することになります。本人たちはともかく、弟子などの取り巻きは冷静ではいられないでしょう。統一王座決定戦をやらせたいという気運が盛り上がったことでしょう。
小次郎としても、剣術師範としてのプライドがあり、武蔵を倒せば全国に名を轟かせることができます。
それだけなら、剣術家同士の純粋な決闘ということになるでしょうが、ここに当時の小倉藩(細川藩)が絡んできます。どうも、政治的陰謀の匂いがしますね。
戦国時代の佐々木氏は岩石城を拠点とした地方豪族土豪でしたが、豊臣秀吉の九州平定の際、降伏を余儀なくされます。そしてこの地を領した細川氏の支配下に入りました。つまり、細川氏からすれば警戒すべき勢力です。もし反乱を起こされれば大変なことになります。そこで、懐柔の意味もあって一族の佐々木小次郎を剣術師範として遇していたと考えられます。
ところが、この小次郎が力を付け、藩内のヒーローになっていったとすれば、藩の重鎮はいい気分はしませんよね。
そこに現れたのが宮本武蔵です。武蔵が偶然来たのか、藩が呼んだのかは定かではありませんが、決闘という形で佐々木小次郎を葬れるのであれば・・・と小倉藩の誰かが考えても不思議ではありません。
現地に行っても行かなくても楽しめる
巌流島だけのガイドブック
音声ガイドを聴きながら武蔵と小次郎に会いに行く想像旅行へ
え? 宮本武蔵は遅れてないし、佐々木小次郎を殺してもいない!?
なにはともあれ、4月13日、決闘が行われることになりました。藩が主催する公式戦です。立ち合いの藩士が見守る中で行われるのです。
この決闘、小説や映画では二つの有名なシーンがありますね。ひとつは武蔵の遅刻作戦です。小次郎を苛立たせるため、わざと約束の時間に遅れて島に到着します。真偽のほどは定かではありませんが、武蔵の養子・伊織(いおり)が記した『小倉碑文』には「両雄同時に相会す」とあり、時間通りに行われたことになっています。
もう一つが、小次郎が刀を抜いた際に鞘(さや)を投げ捨てたのに対し、武蔵が「小次郎、敗れたり!」とツッコんだことです。「勝つ身であれば鞘は捨てないはず」と言って小次郎の動揺を誘う作戦です。しかし、これはおかしくないですか? 長い鞘を差したままだと邪魔になるし、捨てるのが自然でしょうけどね・・・。
まあ、この決闘場面は多くの作家が想像力をたくましくして描いていますので、それぞれを読んでいただければいいとして、要するに武蔵は勝ちます。ただし、小次郎を殺してはいません。
細川氏側の史料『沼田家記』には、武蔵が去った後、小次郎は息を吹き返しましたが、隠れて見ていた武蔵の弟子によって殺されたと書いてあるのです。にわかには信じられませんが、小倉藩の関係者が小次郎を殺して、武蔵の弟子のせいにしたとすれば、十分にあり得ることでしょう。いやあ、サスペンスですねえ。
勝った方の武蔵は細川氏の家臣に警固されて藩外に逃げ、その後、消息を絶ちます。
武蔵にとって巌流島はアウェイだったのです。佐々木小次郎がホームのヒーローであり、巌流島と名付けられた理由がわかりますね。
武蔵は『五輪書』でこの巌流島の決闘のことに触れていません。また、その後、決闘をしたという史料もありません。つまり、武蔵にとって巌流島の決闘はあまりいい思い出ではなく、その後、剣術家としての在り方を変えてしまうインパクトがあったのかもしれませんね。
あの決闘の22年後、50歳で小倉に戻る宮本武蔵は、
どんな想いで海峡を見つめたのだろう・・・
武蔵が再び小倉の地を踏むのは巌流島の決闘から22年後、50歳になってからです。その2年前に明石10万石の小笠原忠真(おがさわらただざね)が小倉15万石を得て小倉城に入ります。そのとき小倉藩の家老になっていたのが武蔵の養子・伊織なのです。
宮本伊織は寛永元年(1624)、武蔵の養子となり、2年後に明石藩の小笠原忠真に近習になっていました。大変優秀な人物だったようで、家老へと大出世をしていたのです。
伊織を頼って小倉に来た武蔵は以後7年間、関門海峡を眺めながら、比較的穏やかな日々を過ごします。この間に、剣術家というよりも広く諸芸に目を開いた芸術家、文化人として名を高めていきました。
22年前のあの戦いを武蔵が忘れようはずがありません。さぞ複雑な思いをもって海峡を眺めていたことでしょう。関門海峡は、宮本武蔵にとって最後の決闘の場所であり、晩年、新たな境地に到達した場所でもあったのです。
宮本武蔵は寛永17年(1640)に細川忠利に招かれて熊本藩に移り、5年後、その地で没します。
死後9年目の承応3年(1654)、息子宮本伊織は小倉藩領の手向山(たむけやま)に武蔵の生涯を約1100字にまとめた文章(『小倉碑文』)を刻んだ石碑を建てました。この碑は現在も手向山公園(北九州市小倉北区赤坂4丁目)に静かに佇んでいます。
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凄い真実ですね。小次郎が死んでなくて、その後に他人によって殺されたとは思ってもみませんでした。だから佐々木小次郎のお墓が今でも祀れてるんですね。
山口さん、コメントありがとうございます。ここに書いたことも、ひとつの古文書からの情報と筆者の想像力で、何が事実かは分かりません。そこか歴史の面白いところですよね。