提供:北九州市・下関市(関門地域行政連絡会議)
技を伝えることで、永遠の命を得た宮本武蔵。
2018年度の関門時間旅行プロジェクトでは、様々なテーマを深掘りしながら関門を楽しむ「旅」を企画していきます。
第1弾のテーマは、巌流島後の宮本武蔵をめぐる関門時間旅行。
吉川英治の小説が書かれた頃は分かっていなかったことが、最近の研究でいろいろと分かってきています。エピソード2では、巌流島の戦いの直後、関門海峡を臨む山城 門司城に行ったときの武蔵の切ない気持ちを想ってみました。まだ見ていない・・・という方は、こちらです。ぜひご覧ください。
さて、今回は一気にタイムマシーンのナビゲーションの行き先を「現代」へと戻します。なぜなら、宮本武蔵は今でも生きているから。
・・・といっても「技」の話です。今も脈々と続く「二天一流の剣術」、そして水墨画の技に宮本武蔵の動きを今も見ることができます。
特に、武蔵の水墨画はいわゆる山水画ではなく、野鳥などを中心としたモチーフを、さーっと一気に描くのが特徴なので、まさにその「筆致」に武蔵の動きが見えています。当時の「動画」はもちろん残っていませんが、この絵の模写をしてみればある意味では剣術の型以上に宮本武蔵の動きをトレースできるのではないか?そう思って探してみたらまさに武蔵の模写をする水墨画家が居たのです。しかも北九州に。
そこで、小倉の二天一流剣術の道場で両者を合わせ、互いに刺激しあってみたら、どうなるか!?と、無理をお願いしてやってみることにしました。さぁその結果は・・・
次回は、明石取材〜!?
宮本武蔵と伊織の親子を、より大きく成長させたのはなんといっても小笠原忠真(ただざね)です。明石城の初代城主であり、細川家が小倉から熊本に移った時に小倉に移封になってその後ずっと小倉城主を務める小倉藩小笠原家の祖です。
世の武蔵研究では、小笠原忠真の話はほとんど出てきませんが、小笠原忠真こそ、家老となった宮本伊織はもちろん武蔵にとっても最も長く仕えた(仕官したわけではありませんが)殿だと言えるのではないでしょうか。
そんなわけで、明石の人に取材してみることにしました。次回もお楽しみに!