関門時間旅行

【Episode2】決闘の日の武蔵の気持ちを探りにでかけよう②

 


提供:北九州市・下関市(関門地域行政連絡会議)

決闘の後、宮本武蔵の心はブルーだった!?

2018年度の関門時間旅行プロジェクトでは、様々なテーマを深掘りしながら関門を楽しむ「旅」を企画していきます。

第1弾のシーズン1のテーマは、巌流島後の宮本武蔵をめぐる関門時間旅行

エピソード1では、想像力のタイムマシーンに乗って1612年の小倉藩へ出かけてみました。

当時の小倉は、「唐風(今でいう海外風)」の小倉城ができたばかり。ちょっと風変わりな藩主 細川忠興が戦乱の無い新時代に大規模再開発したトレンディ城下町だった! そんな小倉藩の剣術指南役をめぐる戦いがあの巌流島の決闘だったというのがポイントでした。

巌流島の戦いははっきりした史料は少なく、多くはかなり後に作られた創作物なので「諸説あり」なのですが、それにしても気になることがいくつかあります。

  • 巌流島が間近に見える下関の彦島では、昔から岩流(つまり小次郎)びいきの伝説があるという
  • 宮本武蔵の死後9年目に、小倉藩筆頭家老になっていた宮本伊織が小倉の手向山(たむけやま)に建てた義父を称える碑文にこの決闘のことは記されていて、武蔵が木剣で一撃で岩流という兵法者を撃ち倒したこととその後「舟島(巌流島の正式名称:今も同じ)」が「岩流島」と呼ばれるようになったと書いてある
    *武蔵の生前を直に知る人がたくさんいた頃なのでかなり信憑性が高い
    *ということは、武蔵が生きている当時から舟島は「岩流島」と呼ばれ、多くの人に周知の事実だった
  • 決闘の当時小倉藩の支城「門司城」の城代(小倉藩家老)だった沼田延元の家人が、巌流島の戦いから60年後に書いた「沼田家記」にはこんな風に書いてある
    ・武蔵に木剣で打たれた小次郎はその後意識が戻るが、隠れていた武蔵の弟子によって撲殺された
    ・怒った小次郎の弟子が武蔵を討とうと追ってきて宮本武蔵は門司城に逃げ込んできた
    ・沼田延元は武蔵に豊前国を出るように伝え、鉄砲隊に護衛させて豊後国(大分県)にいた武蔵の養父の元へ移送した
    *この「沼田家記」は宮本武蔵の武勇伝的なものではなく、こんな話を創作する必要はないので信憑性が高いのではないか・・・

以上から想像できるのは、少なくとも巌流島の決闘直後には、下関側でも小倉側でも宮本武蔵の評判はあまり良くなかったのだろうということです。

決して、宮本武蔵が優れた剣豪では無かったのでは・・・などとは思いません。五輪書に記した通り、彼は常人を遥かに超える剣の達人であり、それ以上の普遍的な存在に違いないと思います。しかし、少なくとも「あの日」にはその評価はされなかったようです。

「あの日」の武蔵の気持ちを想像しながら現地を回ると、「時代の変化」に翻弄される武蔵の苦労がリアルに感じられます。

次回は、武術の武蔵 × 芸術の武蔵 ・・・二面の宮本武蔵が小倉で出会う!?

ご存知の通り、宮本武蔵は晩年に熊本で「五輪書」を著し、「二天一流」という兵法にその考え方を受け継いでいきます。
一方で、優れた芸術作品もたくさん残しました。中でも水墨画は、重要文化財になっている作品がいくつもあること、ご存知でしたか?

つい、歴史上の人物だと史実への探求・・・となりがちですが、宮本武蔵が残した武術は今もその系譜を継いでいる人が日々鍛錬を重ねています。また、武蔵の水墨画は極めて筆数を省いた作品であり、その画面をしげしげ見ていると「筆致」や「スピード感」などが見えてきます。

そして実は、そんな宮本武蔵の技を磨こうと人たちが、北九州の地につながっていたのです。さぁどんな展開になるのか!?

次回もお楽しみに!

About The Author

関門プロデュース研究隊隊長富田 剛史
関門エリアの魅力に惹かれ、しかしそのA級コンテンツが地元以外にあまりに知られていないのを何とかしたいと「関門プロデュース研究隊」を旗揚げした。日々、一風変わった仲間が増殖中。あなたもいかがです?

メディアプロデューサー
メディア化 支援アドバイザー
トミタプロデュース 代表取締役

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