海峡都市。
そこでは、兄弟のような二つの都市の真ん中に、世界につながる海が流れています。

関門海峡なら、その幅は、最短でわずか700m。
海峡をへだてて、異なる文化、異なる価値観、異なる存在が向かい合う。

微妙に違うあの町とこの町が、船で、橋で、トンネルで結ばれ、
日常の内側に、「旅」が包み込まれていく。

あちらとこちらの人々が、複雑な歴史と感情を引きずりつつも少しずつ交わり、
そこから新たな文化が創造されていく。

世界の海峡都市 #1 イスタンブール

【国 家】トルコ

【海峡名】ボスポラス海峡

【都市名】イスタンブール (Istanbul) <旧名 コンスタンティノープル>

  • 海峡西岸都市:イスタンブール|欧州がアジアと接するバルカン半島最東部
  • 海峡東岸都市:ユスキュダル|アナトリア半島最西部、トルコ東部への鉄道の起点

【両岸最短距離】およそ800m (関門海峡では、両岸最短距離は700m)

【海峡都市エリア人口】およそ1,400万人

【宗 教】主にイスラム教スンナ派

 

海を挟んだ異文化との接点が日常に溶け込む独特さが、旅人を魅了してやまない、「世界の海峡都市」の数々をご紹介するシリーズ。初回に取り上げるのは、トルコ最大の都市、イスタンブールです。

ヨーロッパとアジア、キリスト教世界とイスラム世界。これらふたつをへだてるボスポラス海峡の両岸をはさむように位置するイスタンブールは、ひとつの都市の中に、ふたつの世界を内包する特異な存在です。

ボスポラス海峡は、全長およそ30km。北の黒海と、南のマルマラ海をつないでいます。マルマラ海から、さらに南に、ダーダネルス海峡を抜けると、地中海(エーゲ海)です。ダーダネルス海峡のアジア側には、知られざる海峡都市チャナッカレや、世界遺産・トロイ遺跡があります。

現在のイスタンブール市民は、90%以上がイスラム教徒です。しかし、この街の歴史をひもとくと、ボスポラス海峡が、ローマ帝国にルーツをもつキリスト教徒のビザンチン帝国と、アジア系のイスラム教徒がつくったオスマン帝国との、幾世紀にもおよぶ闘いの海であったことがわかってきます。

関門海峡で繰り広げられた、数々の闘い。たとえば、平家の貴族政権と、源氏の武家政権との壇ノ浦の戦い。あるいは、高杉晋作を筆頭に倒幕を掲げて立ち上がった長州藩と、それを討とうと九州小倉から押し寄せた幕府軍とが争った第二次長州征伐。これらを彷彿とさせるような、両岸の対立と争い、そしてその後の融合と交わりの末に、東洋と西洋が出会う交差点のような、この街独特の魅力が紡ぎ出されていったのです。

こちらは『ブルーモスク』。17世紀はじめ、オスマン帝国のスルタン(皇帝)アフメト1世によって建立されました。世界でここだけの、6本の塔にいろどられたモスク。内部の美しい青色のタイルによる幾何学的な装飾は、息を呑む美しさです。By Benh LIEU SONG (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

キリスト教の教会であれば、こんなふうに、聖書の登場人物が壁画に描かれますね。

作者 Joseph Kranak (Flickr: Anastasis fresco-Kariye) [CC BY 2.0], ウィキメディア・コモンズ経由

ちなみにこれは、ビザンチン帝国時代の、キリスト教文化に彩られていたころのイスタンブールを代表する遺構、カーリエ博物館の壁画です。

ところが、イスラム世界では、人物をモスクの建物の中に描くことは、唯一神であるアラーに対する信仰の差し障りになると考えます。ゆえに、ブルーモスクに代表されるようなモスク内の装飾は、ひたすらこのような幾何学的な模様なのです。

キリスト教圏の芸術は、絵画でも彫刻でも、人物像の描写が盛んですが、イスラム圏ではそうではありません。その由来は、それぞれの宗教がもつ人物観にあります。

 

イスタンブールが、現在の名称で正式に呼ばれるようになったのは、1923年からにすぎません。もともとこの地を治め始めたビザンチン帝国は、古代ローマ帝国が首都をこの地に移した324年に成立しました。以来、20世紀に至るまで、当時の皇帝の名を冠して、この地は「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになりました。

5世紀、ビザンチン帝国の皇帝テオドシウスが、海に面していない街の西側をすっぽり覆う、長大で堅固な城壁を築きました。この「テオドシウスの城壁」は、以後1000年にわたって鉄壁の防御を誇ります。15世紀半ば、オスマン帝国がコンスタンティノープルを制圧した際にも、この城壁を崩すことはできず、ビザンチン帝国側の門番が鍵を締め忘れたことに乗じて侵入したとの逸話が残されています。

こちらは、アヤソフィア。
ビザンチン帝国時代の初期に建てられ、当地のキリスト教の総主座として、帝国いちばんの格式をもつ教会でした。

wortofree madrid [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

ところが、1452年に、コンスタンティノープルはオスマン帝国の手におちます。入境したオスマン帝国の当時のスルタン、メフメト2世は、このアヤソフィアの格式と、あまりの美しさを惜しみ、最低限の改修にとどめて、イスラム教のモスクに転用することを宣言しました。

ちなみに、壇ノ浦の戦いで関門海峡に没した安徳天皇をまつる、下関の名勝、赤間神宮にも、よく似た歴史があります。なんとこの赤間神宮、江戸時代までは、「御影堂」という名の仏教寺院でした。ちなみに、怪談「耳なし芳一」の舞台は、この御影堂。明治政府によるいわゆる「廃仏毀釈」運動により、神道の神社に姿を変えたのです。

モスクらしい幾何学模様の装飾と、キリスト教時代の名残の、聖書の登場人物を模した美しいモザイク画の数々。

モスクらしい幾何学模様の装飾と、キリスト教時代の名残の、聖書の登場人物を模した美しいモザイク画の数々が共存する、稀有な場所、アヤソフィア。ひとつの街、しかもその中のひとつの遺構で、西洋文明と東洋文明の衝突と融合の歴史を味わうことができる。海峡都市の魅力がきわまる、まさに象徴的な場所です。

 By Caiuscamargarus (Own work) [CC BY-SA 3.0 or GFDL], via Wikimedia Commons

こんな究極の海峡都市、イスタンブールの、現在の姿です。

この美しいボスポラス海峡大橋が、ヨーロッパとアジア、ふたつの大陸を結んだのは、1973年。関門橋の開通と同じ年です。前年の1972年に、下関市とイスタンブール市は、姉妹都市協定を結んでいます。

1986年、日本で瀬戸大橋が開通した年に、イスタンブールでは、第二ボスポラス橋が完成。日本の政府開発援助が財源となりました。

海峡の両岸は、無数のフェリー路線で結ばれています。西岸ヨーロッパ側に集中するビジネス街に向けて、多くの市民が、東岸アジア側から、大陸を超えて通勤していきます。まさに、日常に包み込まれた、「大陸間旅行」です。

 

ちなみに、私たちの関門で楽しめるのは、平安貴族の街・下関と、近代の経済成長を支えた街・北九州。これらふたつの街をへだてる800年の歴史を、わずか5分の渡し船で行き来する、「時間旅行」ですね。

 

あちらとこちらが向かい合い、闘いと融合の歴史を紡いできた、イスタンブール。

私たちの街、関門と通じるところも多い、究極の海峡都市です。

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