2026/4/18(土)下関・赤間神宮 琵琶朗読劇 平家物語抄録「波の下の都」まで、あとひと月です。

関門時間旅行・主宰 トミタプロデュースの富田剛史です。

先週、開催の準備と広報のため下関/北九州に行きました。今回はかなり久々に門司・大里の「柳の御所(御所神社)」にも行きました。やっぱりいいなぁ~と思ったのでそのご報告。

「平家都落ち」後の仮御所の地・柳ヶ浦に二説あり
今の門司駅は初め「柳ヶ浦駅」だった!

平家が都落ち後に落ち着いた「柳ヶ浦」には、大分県宇佐市説と、福岡県北九州市門司区説の2つがあります。

詳しい論考は学者先生にお任せしますが、関門時間旅行としては門司の大里=内裏=柳ヶ浦であるという立場です。

平家は安徳天皇とともに「宇佐行幸」したという話も平家物語に出てきます。宇佐の柳ヶ浦は宇佐神宮に近いのでそっちが柳ヶ浦というのもごく自然です。でもなぜ「大里(だいり)」という町にこれほど柳御所伝説が残っているのでしょう?

いまは門司駅ですが元は大里駅です。そしてもっと前、最初に九州鉄道が通った明治24年~41年まではなんと「柳ヶ浦駅」だったそう。

一方の、大分の柳ヶ浦の方は明治30年に開業した豊州鉄道という私鉄の駅で、当初は「長洲駅」翌31年から「宇佐駅」で、後に明治40年に九州鉄道が豊州鉄道を買収・国有化し、42年から「柳ヶ浦駅」と改修されたんだそうです。門司の柳ヶ浦駅と入れ替わるようなタイミングなのが面白いですね。

また大里には不老という地名があり、安徳帝のために風呂の水を汲んだ井戸からその名がついたと言われます。

ずっと大里の人が守ったキリメンさまの像

久しぶりに訪ねた柳の御所(御所神社)は、2018年に能楽・宝生流の二十世宗家・宝生和英さんと一緒に訪れたときとまったく変わらず、静かなときが流れていました。

気になる方はぜひ一度、現地を訪ねてみてください。柳ヶ浦の真偽はともかく、本当に源平合戦の記憶が残るその昔から、この地の人たちが安徳天皇や平家一門とのこ゚縁を大切にしてきたことが感じられるでしょう。

境内に、昔から人々が大切に守ってきた「キリメンさま」という像を護る石室があります。

脇にある説明板によれば、中には2体の木像があり、ひとつは安徳天皇、ひとつは平宗盛だといいます。源平合戦後すぐの頃の制作と考えられ、村の人が密かに守り続けてきたそうです。今は木像はこの地の守り神である戸上神社の御神宝となっています。

この研究をされた佐野経彦氏は、文久3年に訪れたと書いてある通り江戸時代の人です。小倉生まれの皇道研究者・宗教家なので地元びいきもあるでしょうが、彼もやはり柳ヶ浦は大里沖の関門海峡であると思っていたことでしょう。

明治になってフィーチャーされる門司・大里

そして、安徳天皇御所址の石碑には明治11年5月の建立とあり、また鳥居には明治17年とあり、長く続いた徳川の世(=源氏の世)が終わり明治に入ってすぐにこの神社が整備されたことを思わせます。

そして、明治35年には明治天皇もこの地を行幸されます。この神社の本殿というか、奥の建物にお泊りになったそうです。安徳天皇の慰霊、安らかな世になることを願われてのことでしょう。

もちろん、当時は門司港と八幡製鐵所、そして九州鉄道いう日本の国策の要ができた頃ですから、この地を訪れたのは柳の御所のためではないでしょうが、それにしても忙しい日程の中でわざわざ来て泊まっておられるわけです。当時の研究者と皇室の間にも、この地が「柳ヶ浦」であったことは定説だったのではないでしょうか。

柳ヶ浦といえば、「清経」
能楽の有名演目で室町~江戸時代の人にもおなじみの地名

「清経(きよつね)」という能楽の演目をご存知でしょうか? 能を大成した世阿弥の出世作・代表作のひとつで、現代でもよく舞われる人気作品です。

清経とは平清経のことで、琵琶朗読劇「波の下の都」でも出てきますが、平家都落ちのあと太宰府を追い出され、文字通り波の上の放浪者となった平家一門の行く末に絶望し、柳ヶ浦で自ら入水して命を絶ってしまいます。能楽では亡霊となった清経と、京の都で夫の帰りを待っていた妻とが互いを責め合って夫婦喧嘩する・・・そんな話。

平徳子が「今おもえば、あれが我が一門の悲しいことの始まりだった」というのが清経の入水自殺です。

そんな数百年も再演を繰り返している舞台のおかげで、柳ヶ浦と言えば清経、清経と言えば柳ヶ浦というのは日本の文化好きには常識。いわゆる有名地です。今よりずっとエンタメが少なかった江戸~明治、その舞台がわが町であってほしい気持ちが宇佐の人にも門司の人にもあったのでしょう。

そして、明治の頃は北九州の方が少々勢いが強かったのかもしれません。

ここで絶対にどっちが柳ヶ浦だなどとは言いませんが、宇佐説の方もよかったら門司・大里の「柳の御所」周辺にもぜひ行ってみてください。少なくとも、この町の成り立ちに平家一門が影響していることは感じられますから。

石碑に刻まれているのは、以下の歌。

分けてこし 野辺の露とも消へずして 思はぬ里の月をみるかな

 平経正

君住めば ここも雲井の月なれど なほ恋しきは都なりけり

 平行盛

それぞれ、「平家物語」の緒環(をだまき)、藤戸(ふぢと)の巻に出てくる歌で、平家物語にはここで詠んだとはハッキリは書かれていません。果たして本当にここに安徳帝の御所が合ったかはよく分かりません。

ただその後、幼い安徳天皇が壇ノ浦の戦いで沈んだのは、間違いなく関門海峡です。

琵琶朗読劇 平家物語抄録『波の下の都』地元の人がこういう伝説を元に少しでも思いを馳せ続けるのは、きっと永遠の慰霊につながることであろうとは思います。「平家物語」を知れば、もっと楽しめます。ぜひ一度、ご覧になってみてください。

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