”石炭の神さま”と呼ばれた男
日本の芸術文化・生活文化を支えるために

佐藤慶太郎は、明治元年、現在の北九州市八幡西区に生まれました。

当時の北九州はエネルギー産業による急速な発展の最中で、いわゆる”石炭成金”と呼ばれる人々が多く誕生していました。関門海峡が海運業の要所として大いに発展した時代でもあります。

この様子を間近に見ていた文化人がいます。当時、陸軍軍医官として小倉に赴任していた森鴎外です。彼は福岡日日新聞に、次のように寄稿したそうです。

「金持ちはお金を大いに使うべきだ。しかし、使い方が問題である。もし自分が九州の資産家ならば、個人の遊興ではなく、次世代の青年育成のために惜しまず私財を投げうつべきだ」

佐藤慶太郎は、まさにその後者といえるのではないでしょうか。彼の功労で最も有名なのは、東京府美術館(現・東京都美術館)設立のために100万円(現在の約30億円!)もの建設費を寄付したことでしょう。第一次世界大戦を機に不況を迎えた石炭業界を懸念し、彼は東京を訪れ、三井や三菱などの財閥たちに石炭鉱業連合会の設立を説いてまわりました。その際に、美術館設立のための寄付を決めたというわけです。

実業家カーネギーに感銘を受け、「富みて死すは、富者の恥辱なり」という言葉を信条としていう佐藤慶太郎。その言葉通り、彼は生涯、事業で生んだ財産を貧しい人々の救済や暮らしの向上のために惜しみなく費やしました。

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