関門時間旅行

西郷隆盛with月形洗蔵 命懸けで海峡を渡った薩長同盟の同志

西郷隆盛with月形洗蔵 命懸けで海峡を渡った薩長同盟の同志

あけましておめでとうございます。本年も関門人物伝イキザマミュージアムをよろしくお願いします。

2018年第1回目の関門人物伝は西郷隆盛です。というと、「ほらほら、大河ドラマ『西郷どん』の便乗だね。だいいち、西郷さんと関門海峡って関係あるの?」というツッコミが聞こえてきそうです。

実は、西郷隆盛と関門海峡、大いに関係があるのです!

ときは元治元年(1864)12月11日、西郷隆盛は小倉から船に乗り、関門海峡を渡って下関をめざしていました。何のために? このとき、西郷隆盛、周囲の反対を押し切って、あっと驚く行動に出ようとしていたのです。

禁門の変で活躍し、征長軍の参謀となる西郷隆盛

西郷隆盛

話は10か月ほど遡ります。藩主・島津久光の逆鱗に触れて沖永良部島に流されていた西郷隆盛は、1年8か月振りに赦免されて、2月21日、島を離れました。

西郷が島にいた間に、政局は大きく変わっていました。特に、薩摩藩と長州藩の関係です。前年の文久3年(1863)8月18日に、薩摩藩は会津藩と組んでクーデターを起こし、朝廷を牛耳(ぎゅうじ)っていた長州藩を京から追い出しました。長州藩寄りだった三条実美ら7人の公卿も都落ちし、長州に身を寄せました。

七卿落図(山口県立山口博物館蔵)

当然、薩摩藩と長州藩の関係は険悪になりました。

12月24日には、関門海峡を通っていた薩摩藩の蒸気船・長崎丸を長州藩が前田砲台から砲撃し、沈没させています。多数の溺死者が出たといわれています。

長州藩は失地を回復するため、元治元年(1864)7月19日、京に出兵し、御所を攻めるという挙(禁門の変)に出ます。このとき、西郷隆盛は薩摩軍を率いて蛤御門に駆けつけ、長州勢と戦闘に及びました。この戦いで、西郷は軽症ながら被弾したといわれています。

 

徳川慶勝(よしかつ)

尊王を標榜(ひょうぼう)する長州藩士らが御所に発砲したことで、幕府は長州藩を征伐する格好の口実を得ました。7月23日の朝議で長州藩追討が決定しました。征長軍の総督に前尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)が就きました。会津藩主・松平容保(かたもり)のお兄さんですね。副総督は福井藩主の松平茂昭(もちあき)。そして、禁門の変で奮戦した西郷隆盛が参謀に抜擢されました。

 

幕府は中国・四国・九州の34藩に出兵の命令を出し、芸州口、石州口、周防大島口、小倉口、萩口に分けて布陣させました。長州藩攻撃の西側前線となる小倉城下には、8月6日に唐津藩300人が入ったのを皮切りに、福岡藩、薩摩藩、佐賀藩、熊本藩などが続々と布陣し、総数は4万人を超えました。

 

西郷隆盛、勝海舟との運命の出会い

勝海舟

さて、西郷隆盛は長州藩に厳罰を与えるため、出陣準備をしていましたが、9月4日、大坂で運命の出会いをします。幕府の軍艦奉行・勝海舟と会談する機会を得たのでした。

勝は「今は国内で戦う時ではない。もはや、幕府に国を統(す)べる力はないので、雄藩による共和政治をめざすべき」といった趣旨のことを熱く語りました。幕臣から倒幕の発想が出たことに西郷は驚きました。大久保利通に送った手紙に「実に驚き入り候人物」「勝先生にひどくほれ申し候」と書いています。

西郷は勝海舟との出会いによって、征長軍の参謀でありながら、戦争回避へと考え方を改めていきます。

 

西郷隆盛は総督・徳川慶勝から一任を取り付け、岩国に乗り込んで、岩国藩主・吉川経幹(きっかわつねまさ)と会談しました。西郷は吉川に対し、禁門の変の首謀者の処罰と、五卿(七卿のうち、二卿は行方不明と病没)を他藩に移せば征長軍を解兵すると約束しました。吉川経幹は西郷の案を長州藩に働きかけました。

 

長州藩では椋梨藤太(むくなしとうた)を筆頭にした保守派が台頭してきました。禁門の変、外国艦隊の報復攻撃に負け続けたため、急進派は勢いを殺(そ)がれ、保守派に抑え込まれていったのです。

保守派は吉川経幹の仲介に応じ、禁門の変の責任者として3人の家老を切腹させ、幕府に降伏を願い出ました。

 

国内戦争回避のため、命懸けで関門海峡を渡る西郷隆盛

幕府は長州藩主父子の自筆の伏罪書の提出、五卿の他藩への移転、山口城の破却を条件に、11月18日に予定されていた総攻撃を延期しました。

伏罪書提出、山口城の破却(形だけだったようですが・・・)は履行されましたが、 5卿の移転については、奇兵隊を中心とした諸隊が強行に反対しました。

このまま、奇兵隊などの反対が続けば、戦争になる恐れがあります。憂慮した西郷隆盛は小倉に入ります。西郷を待っていたのは福岡藩士の月形洗蔵(つきがたせんぞう)でした。月形もまた、戦争回避のために動いていました。当時の福岡藩主は黒田長溥(ながひろ)。島津氏の出身で、島津久光の大叔父にあたります。福岡藩は幕府の命令で小倉に布陣していましたが、一方で、家老・加藤司書(ししょ)を中心とした筑前勤王党が戦争を避けようと画策していたのです。

加藤司書

月形洗蔵は西郷隆盛の意を受けて下関に入り、奇兵隊ら諸隊の幹部と西郷の会談をセットしました。

12月11日、西郷隆盛はこれを受けて下関に乗り込もうとしました。周囲は反対します。長州を攻める軍隊の事実上の責任者が敵国にのこのこ出て行くというのですから、反対して当然でしょう。しかし、西郷は反対を押し切り、わずかな随行者を連れただけで船に乗り込み、関門海峡へ漕ぎ出しました。

何という大胆さでしょう。まさに死地に飛び込むとはこのことでしょう。歴史上、これほど重い使命を抱いて関門海峡を渡った人がいたでしょうか?

 

下関についた西郷隆盛は奇兵隊など諸隊の幹部を説得します。このとき、西郷と対面したのが誰であるかは分かっていません。拙著『峠を出でて奇兵隊を撃て』(幻冬舎)では奇兵隊総督の赤禰(あかね)武人と参謀の山県有朋に対応させています。

実は、この日、西郷隆盛は高杉晋作と会ったという説もあるのです。真偽のほどは分かりません。もし、それが本当なら、その3日後に功山寺で決起する高杉と西郷の間で、どんな話があったのか、想像力が膨らみますね。

高杉晋作と奇兵隊

いずれにしても、西郷隆盛の捨て身の行動で、5卿の福岡藩への動座が決まり、西郷の思惑どおりに征長軍は戦うことなく、12月27日に撤兵令が発せられました。翌元治2年(1865)1月3日、陣払いの触れが出て、各藩は国に戻りました。

 

一方、前年12月14日に功山寺で決起して成果を上げた高杉晋作は、奇兵隊らの協力も得られるようになり、翌年1月の大田絵堂の戦いで藩正規軍を制して、藩の実権を奪い返しました。

 

西郷隆盛と高杉晋作の意表を突く思い切った行動によって、倒幕・明治維新へと潮目が大きく変わったのでした。

 

元祖・薩長同盟プランナー・月形洗蔵の悲劇

月形洗蔵居宅跡|福岡市中央区赤坂(福岡市ホームページより)

最後に、西郷隆盛と行動を共にした月形洗蔵のその後についてお話します。月形洗蔵って知っていますか? はっきりいって無名ですよね。しかし、本当はこの男のことを書きたかったのです。ただ、「関門人物伝・月形洗蔵!」と銘打っても、軽くスルーされそうで、人気の西郷さんと抱き合わせにさせてもらいました。

 

2月に、5卿を藩内の太宰府に受け入れた月形洗蔵は薩長同盟を構想し、案を練っていきます。5月には、坂本龍馬が太宰府を訪れており、このとき、月形は坂本に薩長同盟案を語ったと思われます。

 

月形洗蔵こそ、元祖・薩長同盟プランナーだったのです。順調にいけば、月形洗蔵という名は薩長同盟の仲介者、明治維新の立役者として歴史に刻まれるはずでした。

 

黒田長溥(ながひろ)

しかし、一寸先は闇です。翌6月、幕府の圧力を受けた藩主 黒田長溥は心変わりし、筑前勤王党を弾圧します。家老・加藤司書ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首となり、筑前勤王党は壊滅します。この悲劇は乙丑(いっちゅう)の獄と呼ばれています。このことによって、福岡藩は明治維新での発言力を失うことになるのです。

 

12年後、西郷隆盛は新政府に不満を持つ藩士らに担がれて西南戦争を起こします。この戦争に旧福岡藩士が呼応しようとします。500人近い士族が決起し、福岡城を襲おうとして鎮圧され、首謀者の加藤堅武らが処刑されました。ちなみに、加藤堅武は乙丑の獄で切腹させられた加藤司書の遺児でした。

歴史は巡ります。

About The Author

関門プロデュース研究隊関門の歴史ザムライ小野 剛史
郷土史家 行橋市在住
「小倉藩の逆襲」ブログ連載中http://759700.cocolog-nifty.com/blog/ 
著書に『豊前国苅田歴史物語』(花乱社)
   『峠を出でて奇兵隊を撃て 幕末小倉藩物語』(幻冬舎)

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