提供:北九州市・下関市(関門地域行政連絡会議)
あの日、宮本武蔵は何を想ったのだろう・・・
2018年度の関門時間旅行プロジェクトでは、様々なテーマを深掘りしながら関門を楽しむ「旅」を企画していきます。
その第1弾となるシーズン1では、数多い関門のヒーローの中でも世界知名度抜群の宮本武蔵を取り上げます。それも、巌流島後の宮本武蔵です。
後に「巌流島の決闘」と呼ばれる戦いがあった日は、慶長17年4月13日(1612年5月13日)説をはじめいくつかの説がありますが、江戸時代に入って間もないころの小倉藩でのできごとなのは間違いありません。
ここで、想像力のタイムマシーンに乗って、当時の小倉藩へ出かけてみましょう。
タイムマシーンで江戸時代初期の小倉へ
当時は、小倉城ができて間もない頃です。小倉城(今の復活天守閣では違う形で再現されていますが)は当時としては変わった形の屋根を持つ城でした。亡き妻ガラシャを弔うキリスト教のミサが響き、貿易船も盛んに訪れていた小倉は、ちょっと風変わりな藩主 細川忠興が、戦乱の無い新時代に大規模再開発した新しい城下町だったのです。
一方、宮本武蔵は遅れてきた天才武者でした。天下分け目の関が原の戦いに参戦したという話もありますが、いずれにせよ名も無き新人ですから委細不明です。関ヶ原後は、日本中で大企業が半分倒産したようなものですから、優秀なサラリーマンがたくさん失職します。一方で、徳川方に味方して新大名になったものや大幅加増されたものは今で言う急成長ベンチャー!失業武士の中でも、名のあるもの、実績のあるもの、コネのあるものは、高い待遇で雇われます。
ところが、宮本武蔵は大戦での武功もないし名のある流派で学んだものでもありません。実績も学歴も無いものが実力を示そうとすれば、名だたる兵法者に挑んで勝っていくのは当時ひとつのやり方でもありました。武蔵も京都で有名だった兵法家の吉岡一門などに次々と打ち勝ち、世にその武名を轟かせていった果てにあの「巌流島の決闘」があります。強い兵法者との命をかけた腕比べを武蔵が最後にしたのが巌流島だったのです。
あの日、武蔵はどんな気持ちだったのか・・・それを探りに行くところからこの旅はスタートします。
「決闘」が終わった後の伝説
吉川英治の小説でも様々な映画やドラマも、巌流島で武蔵が勝つところがクライマックス。ここで「完」のマークで終わりますよね。しかし、ここから先が「巌流島の決闘」の不思議なところです。
勝った武蔵ですが、小倉藩に登用されることなく放浪の浪人生活を続けています。
そして、小倉藩家老の一人で小倉藩の支城「門司城」の城代を務めていた沼田延元の家人が、巌流島の戦いから60年後に書いた沼田家の記録「沼田家記」によれば、決闘のあと武蔵は小次郎の弟子に追われて門司城に逃げ込んできたとあるのです。
このあたりは、また次回、「門司城の跡」に実際に登って感じてみたいと想います。
次回もお楽しみに!