提供:北九州市・下関市(関門地域行政連絡会議)

巌流島後の宮本武蔵。
才能が開花する明石〜小倉時代

2018年度の関門時間旅行プロジェクトでは、様々なテーマを深掘りしながら関門を楽しむ「旅」を企画していきます。
第1弾のテーマは、巌流島後の宮本武蔵をめぐる関門時間旅行

宮本武蔵が、剣豪というだけでなく水墨画でも、極めて優れた才能を発揮した人だということ、そして「剣」と「筆」は武蔵にとっては別の世界ではなくおそらく延長上にあるものであったこと、前回エピソード3で追いかけてみました。
まだ見ていない・・・という方は、こちらです。必見です。

さて、巌流島後に姿を消した宮本武蔵。巌流島の決闘の時点ではまだ「剣をとったら誰にも負けない男」を目指していたはずです。それが、晩年多くの優れた芸術作品を残し、五輪書を始めとした思想書といってもいいような著作を残して「剣聖」と呼ばれていくのには、巌流島は大きな転機であり、その後の日々こそが宮本武蔵という人の人間形成にとって非常に重要だったはずです。
どこでどんな心境の変化、環境の変化があったのでしょうか?

そのヒントは、兵庫県の明石市にありました。
なんと、宮本武蔵はここでいくつも「庭」を作っています。「作庭」は、ひとつの世界観の具現化です。そしてその才能は、町自体をつくっていくという「町割り」にも発揮されたといわれています。

これを依頼したのは、後に小倉城主となる小笠原忠真(ただざね)でした。武蔵は、大阪の陣に参戦したあと、明石に新しい城下町を作るという大仕事を抱えた若き大名 小笠原忠真と出会います。宮本武蔵と息子伊織をはじめとした武蔵ファミリーは、まさに小笠原忠真との日々に、大きくその才能を伸ばしていくことになります。

次回は、この旅のクライマックス。
齢50の頃…兵法を極める武蔵、人生二度目の小倉へ。

小笠原忠真との日々、まず最初は明石ででした。武蔵の養子である宮本伊織が小笠原家に仕官し、あっという間に執政役つまり家老に出世していきます。

そして、運命とはこのことでしょう。宮本伊織が家老になってすぐに熊本の加藤家がお取り潰しとなる事件が起こり、熊本へは小倉にいた細川家が、そして小倉には明石の小笠原家が入ることになりました。つまり、あの巌流島の小倉へ、明石から転藩になるのです。武蔵はどんな気持ちだったでしょうか。

いよいよクライマックスの小倉へ! 次回もお楽しみに!

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