関門時間旅行

【Episode5】小倉の手向山は、武蔵ファンにとってピラミッド級なのです!

 


提供:北九州市・下関市(関門地域行政連絡会議)

宮本武蔵は、小倉に「家」を残した

宮本武蔵が最晩年に熊本の細川藩で5年を過ごし、五輪書を書いて亡くなることはよく知られていますが、熊本の前に約8年間小倉で過ごしたことはあまり知られていません。明石時代も含めれば小笠原家と行動を共にしたのは実に23年。特に小倉では宮本伊織は筆頭家老になり、小笠原家で藩医となる伊織の弟の小原玄昌や、伊織兄弟の母の理応院、明石時代からの盟友 槍の達人高田又兵衛など、一族や大事な友人が続々と集ってきています。

孤高の人と思われがちな武蔵が、人間的なつながりを持てたのが小倉の時代なのでしょう。宮本武蔵は五輪書や兵法の奥義だけではなく、子々孫々へ続く未来である「家」を小倉に残していたのです。

2018年度の関門時間旅行プロジェクトでは、様々なテーマを深掘りしながら関門を楽しむ「旅」を企画していきます。
第1弾のテーマは、巌流島後の宮本武蔵をめぐる関門時間旅行

いよいよ、このプロジェクトも「宮本武蔵をめぐる関門の旅の行程」を詰める段階に来ました。メンバーは連日、真剣に会議をしています。

関門と宮本武蔵とを考える上で、この時間旅行は2つの時代に分かれるのが大きなポイントです。

1つ目は、1612年(慶長17年)の細川藩時代の小倉城と関門。もちろんあの「巌流島の決闘」のときです。
そして2つ目は、それから20年後。1632年(寛永9年)〜の小笠原藩時代の小倉城と関門です。ここから約8年ほど、50代という円熟期を宮本武蔵は小倉を中心に過ごしたと思われます。

「吾家は小笠原家に遺し、吾技は細川家に遺す」

そう宮本武蔵は語ったと伝わっています。

小倉の手向山に残る碑文は、
宮本伊織が家老として建てた
小笠原藩の偉人 宮本武蔵のお墓

今は手向山公園となっている、小倉と門司の間くらいにある小高い山は、元々は宮本伊織に与えられた燃料確保のための薪山だったそうです。ですから「宮本山」などと呼んでいたそうですが、あの宮本武蔵の生涯を綴った1,111文字の漢文が刻まれる立派な碑が建って以来、人々はその山を「手向山」と呼ぶようになったとか。

「手向ける」という言葉は、墓前に花や線香を供える際に使う言葉ですね? つまり、江戸時代の小倉小笠原藩の人たちには、あの山全体が宮本武蔵のお墓として認識されていたということではないでしょうか。

実際に見ると、この巨大な石碑を1654年に山の上に建てたときの大変さが忍ばれます。きっと藩を挙げての一大プロジェクトだったに違いありません。この下に武蔵のお骨が分骨されているとかいないとか…噂レベルの話はともかくとして、武蔵の死後9年目に十周忌を前に小笠原家筆頭家老の宮本伊織が何年もかけて準備したまさに「お墓」であることは間違いないでしょう。実は今も北九州に代々続く「宮本家」と、伊織の弟で医師の小原玄昌の子孫「小原家」の墓所もこの手向山にあり、現在も両家が守り続けています。宮本武蔵はまさに「家」をこの地に残したんですね。

次回は、いよいよ「ツアー篇」。

ここまでの「調査」「取材」「出会い」などの研究成果を総合して、巌流島後の宮本武蔵をめぐる関門時間旅行を企画中です。いま仮につけたタイトルは・・・

宮本武蔵の聖地巡礼 関門時間旅行
武蔵の海峡、二つの「潮目」。

初日は慶長17年(1612年)の小倉藩、2日目は寛永9年(1632年)以降の小倉藩となる2つの時代への関門時間旅行です。宮本武蔵のファンであり、自らも勝負の世界や時代の変わり目で自分を失わずに生きていたいと望む人に体験していただきたいと考えていますが、まずはサンプルツアーを作ってみて、誰か特別ゲストをお迎えして回ってみたいと思います。

そして、この様子は「ツアー篇」として、関門時間旅行Deeper!!で発信していきます。どうぞ、お楽しみに!

About The Author

関門プロデュース研究隊隊長富田 剛史
関門エリアの魅力に惹かれ、しかしそのA級コンテンツが地元以外にあまりに知られていないのを何とかしたいと「関門プロデュース研究隊」を旗揚げした。日々、一風変わった仲間が増殖中。あなたもいかがです?

メディアプロデューサー
メディア化 支援アドバイザー
トミタプロデュース 代表取締役

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