関門時間旅行

「巌流島の真実」宮本武蔵にとってどれほど挫折だったか。そして武蔵の回答は・・・

関門プロデュース研究隊 隊長 富田です。
「巌流島」は誰でも知っていますが、それが関門海峡にあるとは知らない人も多いでしょう。
ましてや、なぜ「巌流島」という名か?その由来などぜんぜん知らない・・・のが一般的でしょうね。

「巌流島」という名前は、武蔵の時代への想像旅行の鍵かもしれないと思うようになりました。今回は、そんなお話を。

富田は歴史学者ではなくコンテンツメーカーなので、史料追求は他にお任せして、状況証拠からその時の様子をできるだけ想像してみることにしました。すると、その時の宮本武蔵の辛く悔しい気持ちがありありと感じられたのです。

地元は決闘後、完全に小次郎びいきだった

「巌流」とは小次郎の流派名「岩流」から来ていることは、宮本武蔵に興味のある人ならご存知でしょう。つまり小次郎の名を冠した俗称が「巌流島」で、正式な地名は昔も今も「舟島」なのです。

この決闘、地元は完全に小次郎びいきでした。そうでないと負けた「岩流」の名で島を呼ばないでしょう。例えば、全米オープンテニスで大阪ナオミが勝った会場が、翌日から世間では「セリーナコート」と呼ばれているようなもの!?ですから…

関門海峡は小次郎の地元であり、武蔵にとってはアウェーだったのです。

そして、恐らく地元では「武蔵は卑怯な勝ち方をした」と評判だったと考えられます。

「宮本武蔵は卑怯」の噂が地元で広がっていた

関門時間旅行の取材で、舟島に最も近い下関の彦島地区で古老に聴いた話では、武蔵はズルいという「昔話」が脈々と彦島に伝わっているんだとか。(詳しくはこちら

その話とは、小次郎は約束通り一人で行ったのに、武蔵は弟子を連れ大勢で小次郎をなぶり殺した…という話です。

また、1984年原田夢果史さんの本で知られるようになった「沼田家記」という書物にも、武蔵が弟子を連れて…の話とその後日談が出てきます。大勢の弟子に小次郎を討たせた武蔵を小次郎の弟子が怒って追いかけてきた、それを当時細川藩の支城だった門司城城代(細川藩家老)の沼田延元が保護して大分にいた武蔵の養父の元に鉄砲隊付で護送したという話です。

「沼田家記」の記述は本当か?武蔵は残念な剣豪なのか?

「沼田家記」はその名の通り、沼田家の子孫が先祖を称えた記録で、宮本武蔵のことは客観的に書いてあるのでは…という見方から、この説は注目されるようになります。昨一般の人のブログや研究者でさえ、これを根拠に武蔵は残念な剣豪だったのかも〜などと書いているものが見られます。

でも、果たしてそうでしょうか?

そう書く人は、武蔵の書いた五輪書や独行道などをよく読んだのか、武蔵の描いた絵をちゃんと見たことがあるのか、お聞きしてみたい。

武蔵の性質・信条・癖などを考えれば、小次郎との決闘を大勢の弟子との団体戦で戦うとはとても考えられません。

「沼田家記」は、巌流島の決闘から60年も後に、沼田の子孫が熊本で書いたものです。
門司城に逃れてきた武蔵を保護して・・・は沼田本人の話で沼田家に伝わったかもしれませんが、なぜ逃れてきたかについては、おそらく「当時地元に広がっていた噂話(昔話)」を元に書いたのではないでしょうか。私はそう考えています。

決闘の島が「岩流」の名で呼ばれ、自分が卑怯者扱いなのを武蔵は知っていた

宮本武蔵の息子(養子)の宮本伊織が、武蔵の死後9年目(承応3年|1654年)に小倉の手向山(たむけやま)に建てた巨大石碑には、父宮本武蔵の生涯が記されています。こちらは、武蔵や小次郎が生きていた時代を直接知る人がたくさんいる、しかも地元小倉に建ったもの。
ここに書いてある内容を元に、その後100年以上経って熊本の弟子によって書かれたのが「武公伝」や「二天記」で、さらにそれを元に創作されたのが吉川英治の小説「宮本武蔵」です。つまり小倉碑文はすべての物語の大元なのです。

ここに、巌流島の決闘のことが出てきます。
「岩流という兵法者と勝負して武蔵が勝ち、以降舟島を俗に岩流嶋と呼ぶ」
と、島の呼び名が変わったことがわざわざ書いてあるのです。

考えてみてください。小倉碑文は浮世絵にも観光名所として書かれたほど公共の場所の碑ですから、島の俗名など不要なら書かぬでしょう。つまり、建てられた当時から「岩流島」といったほうが一般の人に分かりやすかったということです。「え、舟島?どこ?あー!巌流島のことね〜」と。

しかもさらに、
「両雄同時に相会し」
つまり二人は同時に舟島に来た、ともわざわざ書いてある。

いくら巨大とはいっても限られた石碑のスペースを使ってわざわざ書くんですから、当時広まっていた武蔵は遅れてきたという噂を、息子の伊織がハッキリと否定するために書いたと考えられるのではないでしょうか。

ところでなぜ小倉の山の上にこんな武蔵の顕彰碑が建っているのか?
それは、武蔵の息子の宮本伊織が、細川家の次に小倉藩に入った小笠原家の筆頭家老を務めていたからです。そして親の武蔵も伊織について50歳の頃に小倉にやってきます。

なぜ宮本武蔵の息子の伊織が小笠原藩の筆頭家老なのか…長くなるので詳しくは割愛しますが、武蔵が巌流島で勝ったからでは全くありません。伊織を小笠原家に仕官させたのはもちろん武蔵ですが、伊織自身が極めて優秀だったからこそ出世をし、そして幕命によってたまたま小笠原家が小倉に移ることになったのです。

とにかく、あの小次郎との決闘からおよそ20年経って、武蔵は偶然に偶然が重なって再び関門海峡を越えて小倉にやって来ることになった。そこで、あの島が「岩流」の名で呼ばれ、嫌な噂が広がっていることを知ったはずです。

小倉や門司の民、海峡対岸 下関の民は、少し昔に岩流先生を卑怯な方法で倒したあの武蔵が小倉に入った…、どんなひどい奴かとうわさしたのではないでしょうか。宮本武蔵のアウェー感は半端なかったことでしょう。いったいどんな気持ちだったのでしょうか?

悪い噂に折れず、ぶれず、相手にもせず、武蔵が示した最高の回答とは?

宮本武蔵の強さは、自分を信じ抜くメンタルの強さにあります。
武蔵の心は折れません。ブレもしません。ただじっと耐え、鍛錬が続く日々。

そこに、江戸時代最後の大きな戦「島原の乱」が起きます。
制圧に九州各藩があたり、50歳を越えていた老兵武蔵も小笠原家の前線で活躍したことが知られています。家老・宮本伊織は小笠原軍の侍大将として活躍し、戦後その活躍から20代の筆頭家老へと大出世します。

そして武蔵はその後すぐ、伊織をはじめ家族・友人がたくさんいる小倉を一人離れ、熊本へ細川藩の客分として出向くんですね。
そこで二天一流の弟子を育て、最後に五輪書や独行道といった優れた著作を残して亡くなります。

「五輪書」の冒頭は、武蔵が自分の半生を語るところから始まります。そこにいくつか具体的な決闘の記述が見られるものの、「巌流島」のことは一言もありません。伊織の小倉碑文ではあれだけ印象的に書かれた兵法者 岩流との戦いを、武蔵が忘れていたり軽く考えているとは思えず、嫌な思い出なので敢えて書いていないのでしょう。

関門海峡の舟島を「巌流島」と呼び、卑怯なヤツだの残念な剣豪だのといわれる噂を無視しながら、宮本武蔵が残した最高の回答が「五輪書」であり「独行道」なのではないでしょうか。
そして「仰天実相円満兵法逝去不絶」という最後の言葉です。

誰がなんと言おうと、大した肩書きが無くとも、大した俸禄でなくとも、自分の人生に対する自信と満足感に溢れています

そして特筆すべきは、そんなある意味「自分勝手」「空気読まず」「アウトロー」な宮本武蔵が、家族にも弟子にも大いに愛されたこと。
宮本武蔵の生涯、知れば知るほど心揺さぶられる人でありました。

About The Author

関門プロデュース研究隊隊長富田 剛史
関門エリアの魅力に惹かれ、しかしそのA級コンテンツが地元以外にあまりに知られていないのを何とかしたいと「関門プロデュース研究隊」を旗揚げした。日々、一風変わった仲間が増殖中。あなたもいかがです?

メディアプロデューサー
メディア化 支援アドバイザー
トミタプロデュース 代表取締役

Comments & Trackbacks

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  1. By 脱ウソだらけの歴史

    当時広まっていた武蔵は遅れてきたという噂を、息子の伊織がハッキリと否定するために書いたと考えられる

    それ、違うだろ。
    ただの武蔵擁護のために書いたと考えるのが自然。

    噂を払拭させるならもっと違う手段を使わなければ意味がない。

    • 遅くなって失礼しました。コメントいただき、誠にありがとうございます。
      文章の流れから誤解されたら申し訳ありませんが、私は、「武蔵が送れていない」と申し上げたいわけではありません。宮本伊織は父の死後にその噂を否定する意図含めて限られた盤面に巌流島と俗称された島の決闘の話を書いているということでして、言い換えればそれは、おっしゃるとおり『養護』の気持ちもあるでしょうし、その点では異論ありません。つまりは、(自分の父である)武蔵の顕彰でしょう。
      武蔵自身は、巌流島のことはひと言も書き物に残さず亡くなっていますから、巌流島の決闘の状況や武蔵小次郎だけでない周囲の様々な思惑については想像するしかありませんよね。感じる人の感じ方によって見え方も変わってくることでしょう。

  2. 貴方が言っている事の根拠がおかしい、文才と卑怯者かは関係無いかと。
    世の中に性格と才能が剥離した人なんて幾らでもいますから。
    身内が後から書いた文より客観的に見れる田沼家や地元の伝承の方がよほど信憑性が高いと思います。

    • コメントいただき、ありがとうございます。
      伊織が書いていることはもちろん、身内(…というより家老になった自分の父)を顕彰し、みずからの家:宮本家を誇りたいという気持ちも込めてのものでしょう。私は、伊織が小倉の碑文になんと書こうが、武蔵は決闘に遅れてきていない・・・と言いたいわけではありません。というよりも、個人的には、舟島での戦いのときもきっとわざと遅れてきたのではないかと考えています。

      ただ、それが「卑怯」だったかどうかは、今の世に生きる私たちはもちろんのこと、大きな戦がなくなった江戸時代(碑文が立った頃)の人たちにとっても、「卑怯者」への感覚自体が武蔵の若い頃(関ケ原の合戦の頃)とは異なっているに違いないとは思います。巌流島の決闘が仮に1612年としたら既に時代は徳川の世の入口。しかし、大坂の陣の前ですのでまさかその後に250年も泰平の世が来るなんてだれも想像もしていないでしょう。武蔵はそんな時代に命の取り合いをして立身出世を望んだのですから、スポーツの試合のようなフェアプレイの発想はまったくないでしょう。五輪書も精神的揺さぶり、敵の目をくらます法、不意をつく法など、剣の技のみならずあらゆる手を尽くして相手に勝つことが書かれていますよね。武蔵はそのすべてを含めて「兵法」として考え、その理を突き詰め論理と実践を繰り返してきたということは言えると思います。
      そんな武蔵の戦い方、特に地元小倉藩の英雄剣士に勝った戦いを、地元の人が「卑怯」と呼んだことは想像できます。それに対し、宮本武蔵というひとは反論や言い訳をせず、ただ残したのは五輪書や獨行道だったということが興味深いなと思います。武蔵とて人間ですから、さんざん卑怯といわれれば、それに何かしら言いたかったかもしれませんがそれはありません。そして、彼が残した文章や絵を単純に見れば、極みに達した人だったのだろうなと想像される・・・というのが私の感想です。もちろん、他の方が他の感想をお持ちになるのを否定するものではありません。いろいろな感じ方で、昔の人たちの真剣な生き様を想像してみることが、彼らの供養にもつながるのではないでしょうか。

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